2011.4.20更新
第九話
 

 ある日、川の一部が桃色に染まって見えた。
 ニンマショウは肩まで川に浸かり、夢と現を彷徨っていた。その異変を認識していながら、茫洋としたニンマショウの意識はそれに興味を示さなかった。
 しかし目は、勝手に桃色を見つめ続けた。
 映像はじわじわとニンマショウの意識に浸透し、情報が意識を占めていく。ある一線を越えた時、ニンマショウは完全に現に戻ってきた。
 なんだあれは?
 桃色の部分は上流にあった。
 流れの遅い部分を選んで川を遡る。冷水に足の裏は麻痺していた。
 川を桃色に染めたのはどうやら血である。桃色の中心は、赤く染まっている。
 川底に引っかかる赤い塊を見た。それは胎盤に違いなかった。
 ニンマショウははじかれたように辺りを見回した。
 あちらの水底に白いものが引っかかっている。川の中を走る。
 水底から白い物を引き上げる。
 足が折れ、あらぬ方向に曲がっている。へその緒は途中で千切れてそこから出血していた。赤子である。
 裸の赤子が水底に居たのだ。
 ニンマショウが抱き上げると赤子は泣き出した。生きていた。体は冷え切っている。ニンマショウは赤子を自らの体に押し付け暖める。泣き叫ぶ赤子の体が、鳴き声に共鳴して細かく振動している。
 ニンマショウは動揺を落ち着けようと、辺りを見回した。
 そこはニンマショウの精液を詰めた桃の種を沈めておいた近くである。
 しかしその赤子と自らの実験との因果関係をすぐさま認めるほど、ニンマショウは夢想家ではなかった。
 上流で誰かが出産したのかもしれない。泣いている。
 なんと強い子か。
 ニンマショウは岸に戻り赤子のへその緒を処理し、自分の着物でくるんだ。
 上流に行かねばならない。
 ここに置いていけば獣の餌食になるやもしれぬ。ニンマショウは赤子を抱いたまま上流に向かって歩いていった。
 赤子は泣き止むと眠ってしまった。滝の音が近づいてくる。
 カムチタルが近いのだ。
 やがて三条の滝が見えてきた。
 滝は天から落ちてきているように見える。白く泡立った水が滝壺に注いでいる。
 ニンマショウは滝壺を見ていた。白い塊が岩に打ち上げられている。黒く長い髪が水にたゆたっている。
 それは白い裸体だった。
 ニンマショウは見ていた。カムチタルの滝壺にタネの白い裸体を。

  ニンマショウはタネを連れて帰り、薬を与え、眠らせた。囲炉裏の火が熱い。タネの体は芯まで冷えていた。出血が止まらない。
 タネは丸二日眠った。夜中に痛みから泣くことがあった。
 赤子はタネの隣に寝かせてある。右足は骨折しているようであった。骨を接ぐ技術は持っていたが、赤子の骨を接いだことは無い。痛みを抑える湿布を張り、添え木を当てた。赤子は足の痛みから泣き、疲れては眠り、起きている間はずっと泣いていた。
 ニンマショウは事態を把握しようと、情報を整理した。
 精液を封入した桃の種を調べに行ったが問題はなかった。ただ、地に埋めた一つだけそこから無くなっていた。獣に掘り返されたのか。
 死んだと思っていたタネは生きていた。赤子はタネの子に間違いないようだった。父は自分だろうか? そこは判然としない。桃と自分の子でないことは確かだ。
 タネの生存を素直に喜べない自分が居た。
 二日たった夜半、タネが意識を取り戻した。
 タネは不思議そうに辺りを見回している。
「タネよ、わかるか? 俺だ、ショウだ。いったいお前に何があったのだ」
 タネは言葉を忘れてしまったかのように、押し黙っていた。
 ニンマショウは馬を煮た薬をタネに与えた。タネはそれを食べたが、すぐに戻してしまった。
 粥に混ぜもう一度与えた。粥をすするとまた眠った。その寝顔は精気を取り戻したように見えた。
 翌朝、目覚めたタネは失踪していた間のことを話し始めた。

 あの冬、タネは死に誘われていた。死に魅入られていたという方が適切かも知れない。
 洞窟での試練の時、タネは死の国の者に会った。もしかするとタネは恋に落ちたのかもしれない。しかし、それが恋なのか畏怖なのか、タネにもわからない。ただ魅かれた。
 タネは死者に会いに森に入ったのだろうか。ことはそう単純ではない。
 冬の森になんの装備もなしで深く入っていくことが死を意味することはタネも当然知っていた。死に引っ張られていたのだ。
 ニンマショウへの贖罪の意味もあったのかも知れない。タネは自分がわからなかった。自分がわからないことなど当たり前かもしれない。自分を捕まえるための言葉は今よりももっと少なかったのだ。
 言葉で自分の感情や置かれた立場を捕まえ、客観的に見る作業は今日誰でもしていることと思われる。
 当時の人々もきっと同じようなことをしていただろう。ただ、その精度は今よりも低かっただろう。たとえばそれが異性に対する恋なのか、畏怖なのか、判然としないといった具合にである。
 色々な感情を未分化のまま抱え込むことになる。分化するには言葉が有用なのだ。
 タネは腹を押さえる。タネは自分の妊娠を知っていた。
 全ての事柄が闇に包まれたように不可視だった。何もわからない。どうしたら良いのか、どうしたいのか、何が正しいのか、わからなかった。
 試練を受け、死者と出会い、妊娠、また、父として師父として敬っていたニンマショウとの関係に大きな変化があった時、タネの精神には多大な負荷がかかった。その負荷はタネには急すぎたのだ。
 人は他者や社会との接触から、負荷に耐えうる筋力をつけていく。ニンマショウ以外の人物とほとんど接触せず、純粋培養されてきたタネはほとんど無力であったのだ。
 タネは死のうとしたのかもしれない。
 冬の森に入っていった。タネが庭のように知っている森からさらに深く、カムキ山の裾野から、カムサリ山の裾野の方へ。
 藁で編んだ靴はニンマショウがくれたものだ。しっかりと目を詰めて編んであるから、水が染みこみ難い。とは言え、雪が溶けた冷たい水は足にまで達している。
 タネは凍傷を警戒した。そして、それが面白かった。
 私は死の国に向かっているのに。
 身につけていた携帯食が底をつき、ひもじくなってくると、寒さが増したように感じた。死が目の前まで来ている。そう思うと、死に抗いたくなる。帰りたくなる。
 私は死の国に誘われているだけだ。戻った方が賢明なのではないか。
 考えながらも足は山の奥に向かう。今ここで踵を返しニンマショウのもとへ戻ったとしても、その途中で力尽き、死ぬ可能性の方が高かった。
 タネは死にたかった。しかし、体は生きようとした。
 カムサリ山を登っていった。山には雪が積もっていた。
 音がしない。雪が音を吸っている。静寂は死を思わせた。
 ここはもう死者の国に違いない。タネは思った。
 自分は生きたまま死者の国にやってきたのだ。立ち止まると汗が体から熱を奪い、寒気が襲う。そのままでいたら体温の全てを奪われてしまうだろう。
 タネは疲れた体を引き摺るようにして動き回り、露営できる場所を探した。
 獣の皮を持ってこなかったことを後悔した。全く装備無しに歩き始めたのだ。
 タネは森の入り口に、乾いた薪を探しに行っただけだった。薪はアオキの村から充分な量を分けて貰っている。しかし、実験に多くの薪を使ったので不足していたのだ。
 ただそれだけだった。薪を探し森の入り口から少しずつ深部に入っていくうちに、奥へ奥へと進んでいってしまった。上手く説明できないが、それだけなのだ。
 それだけで今、カムサリ山の中腹にいる。
 タネは岩に窪みを見つけた。雪解け水が滴り落ちてくるが、窪みの中に枝葉で簡単な屋根を葺いてやれば濡れずに済みそうだ。
 肌身離さず持っている小刀で枝を数本切り、組んで、屋根を作った。
 その中に潜り込む。寒いが凍えるほどではないだろう。
 風の音が聞こえる。枝葉で作った屋根が揺れるのだ。
 辺りは闇であった。
 緊張と居心地の悪さで上手く眠れない。短く浅い眠りと、覚醒とを繰り返した。
 タネは母・イヌの夢を見た。イヌの顔はぼんやりしていてわからない。それはそのはずである、タネの出産で死んだイヌの顔をタネが覚えているはずがなかった。
 タネはここが死者の領域であることを確信した。
 イヌは怒っていた。タネは必死で逃げたが、イヌを引き離せない。
 恐ろしかった。
 ガサガサという音で目が覚めた。
 何かがタネの露営地に侵入しようしているのだ。
 一瞬、それに感謝した。救われた気がしたのだ。しかし、すぐさま体を縮め、侵入者から逃れようとする。腕を捕まれた。
 強い力で引きずり出されたタネは、地面に投げ出された。すばやく四つん這いになり、猫のようにしなやかに次の行動に備える。
 空は白みかけている。人影が見えた。一人ではない。
 織物ではなく獣の皮で作った服を着ている。匂いも獣と同じだ。
 それはカムサリ山のヤマヒトたちであった。

 タネはヤマヒトの集落に連れて行かれた。集落は山の中にあり木々に囲まれていた。
 建物は見当たらない。なぜそこが集落とわかるのかというと、明らかに人の手によって整備された広場があるからだった。広場の中央には塚があった。それは墓でもあるのだが、その時のタネには判る由もない。
 川の音がする。近くに川が流れているのだろう。カムサリ山の川であるから、イチボ川かその支流かもしれない。
 ヤマヒトたちはタネを縛り広場の中央に寝かせると、去って行った。
 彼らの言葉は訛りが強く、タネには理解し難かった。が、どうやら集落の有力者に相談に行ったらしい。
 カムキ山にもヤマヒトは居て、ニンマショウは彼らとも交流があったが、このカムサリ山のヤマヒトたちとは大分違っていた。タネはカムキ山のヤマヒトを森で見たことがあったが、織物の着物を着て、姿形もタネやアオキの人々と大差なかった。
 ヤマヒトは異界の人間である。山に住む人を単にヤマヒトと言うが、山に住む怪物や神、精霊の類もまたヤマヒトと称された。アオキの人々にとってヤマヒトは人であって人ではないのだ。
 カムサリ山のヤマヒトの存在は知っていた。彼らは農耕よりも狩猟を主として生活しており、弓の扱いが上手であるらしい。ハラトの一族はカムサリ山のヤマヒトに弓矢の技術を習ったと、いつかニンマショウが言っていた。
 しかし、実際に会った事は無かったし、実際に会ったという人も知らなかった。ニンマショウですら会った事は無いと言っていた。
 アオキの者たちが死ぬと死者となり、カムサリ山のヤマヒトとなって生まれる。カムサリ山のヤマヒトが死ぬと、アオキの者として生まれるのだ。
 二つの共同体を死者と生者に別けたのは、ただの言葉であった。
 アオキの人間たちの方が言葉を沢山知っていて、表と裏を別けるとき、死者と生者を別けるとき、自分たちが表を、生を選んだだけに過ぎない。ヤマヒトたちにとったら、死者はアオキの人間たちであるのだ。
 二つの共同体は輪のように考えられていた。その信仰をアオキの人々はほとんど忘れ去り、いまだカムサリ山のヤマヒトだけが保持していた。
 カムサリ山のヤマヒトたちは、着ているものから、姿形まで、アオキの人々とは違っていた。肌は黒く、背が低く、上半身の筋肉が隆起しており、猫背で、顔もゴツゴツしていた。
 タネは冷たい地面に転がされ自身の境遇を思った。
 私は死者に引かれて歩いていた。ここは死者の領域なのだ。私はこのあとどうなるのであろう。もはや生者には戻れないかもしれない。ここでこのまま死者として暮らすことになるかもしれない。そうなれば腹の赤子はどうなるであろう。
 やがて、先ほどのヤマヒトたちは長老と思われる男性を連れて戻ってきた。傍らには若い女が一緒に居る。女は男たちとは違う形の服を着ていた。
 女は黒い髪を後ろに垂らしている。男たちは髪を束ねてまとめていた。
 若く、タネよりも数歳上くらいに見えた。
 男のヤマヒトたちがタネに近づいて、手足の戒めを解いた。
 タネは立ち上がった。体のあちこちが痛い。知らぬ間に打っていたようだ。頭もすっきりしない。霧がかかったようにぼんやりしている。寝不足もあるが、極度の緊張からくる疲れが大きかった。
 白い髪と髭に覆われた鋭い目つきの長老がタネをじっと睨みつけている。顔が真っ黒だと思っていたが、顔中に墨を入れているのだ。入墨は細かな幾何学模様で遠くから見ると黒く潰れて見えた。その黒い皮膚の中に白い目だけがギラギラと光っている。
 長老はタネに向かって何事か話した。しかし、その意味はほとんど解せなかった。怒っているのであろうことだけはわかった。
 タネは自分がまだ死んでいない事に気付いた。その証拠に、タネは死を恐がっている。
 このヤマヒトたちは果たして死者だろうか? もし、死者ならここに私の母様も居るはずだ。母様は怒っていた。私はどうされるのだろうか? 殺されるのならそれでも良い。しかし、私は今は母様に会いたくないのだ。
「私はアオキタネだ。私の夫は呪い師のアオキニンマショウだ。私は敵ではない」タネは言った。
 若い女がタネの言葉を聞いて、長老に耳打ちする。もしかすると若い女はタネの言葉がわかるのかも知れなかった。
 長老は首を振って、若い女に何事か言った。そしてヤマヒトたちはタネを見た。
「私の言葉が判るなら伝えて欲しい。私は死者に引かれてここに来た。私は死の国に向かう途中だ。ここは死の国か?」
 若い女が長老に伝え、長老が若い女に何事か言った。
「いかにも、ここは死者の国だ。しかし、我々はお前を呼んではいない」
「私は死者の国の者と同衾した」
 若い女は顔をしかめ、それを長老に伝えた。長老はそれを聞いて笑い、やがて怒り出した。
「ありえない。お前は生者だ。死者ではない」
「私は生者だ。しかし、死者と同衾した。死者の国と、生者の国の境で私は試練を受けた。その時、死者の国の男がやってきて、私を奪ったのだ」
「お前は、その男に会って、奪われたお前の一部を奪い返そうとしているのか?」
 若い女は長老の言葉を通訳した。
 タネには長老の言っている意味がわからなかった。
 カムサリ山のヤマヒトたちは、太古の人間には男女の差はなかったと考える。性器も持っていなかった。人間は二人しか居なかった。二人は兄弟で仲良く暮らしていた。
 ある時、一人が蛇に体の一部を齧りとられた。一人の体は一部欠けたのだ。欠けた一人は自分の一部を取り戻そうと蛇を探した。
 しかし、欠けた一人が蛇を見付けた時、蛇はもう一人の人間によって食われてしまっていたのだった。
 それ以来人間は、一部が欠けた人間と、一部が出っ張った人間に別れた。出っ張った部分は欠けた場所に戻ろうと体を引っ張る。男性器の勃起はそうして起こるのだ。
 男女が交合するのは、欠けた一部はそこに戻るのが一番だからである。しかし、欠けた人間はもう元には戻らない。
 欠けた体の一部から小さい人間をこぼしてしまうだけだ。そうやって人間は増えた。
 以上がカムサリ山のヤマヒトたちの性差と出産に関する考えの要約であるが、これはいうなれば神話的な解釈であって、日常的な感覚とはかけ離れているであろう。つまり、本音と建前のように、神話的な解釈と自分たちの感覚的な解釈を分けて考えていたと思われる。
 話を戻すと、「奪われたお前の一部を奪い返そうとしているのか?」という表現は、そういったカムサリ山のヤマヒトたちの神話的な解釈から来た言葉なのである。彼らの神話に明るくないタネが理解できなかったのも頷けるのである。
 ちなみにカムサリ山のヤマヒトたちは男女の恋愛感情もそういった神話から解釈していた。互いの一部を共有している男女が魅かれ合うという考え方だ。故に彼らは厳格な一夫一婦制を守っている。
 困惑したタネは、自らの腹を指して言った。
「ここに子がある。死者と生者の子だ」
 若い女の表情が変わった。通訳を促すように、長老が若い女の肩をつかむ。通訳を受けずとも長老はタネの言った事を理解していたようだった。しかし、ことの真偽を確かめるため女に通訳を求めたようだ。
 それだけ重要な問題なのだろう。タネは思い、緊張した。言わない方が良かったか。
 周りを取り囲んでいたヤマヒトたちの間にも動揺が走っている。皆、長老の次の言葉を待った。
「それが本当かどうか、我々は確かめないといけない。もしお前の子が我々死者とお前たち生者の間の子であったなら、それは大変なことだ」
 長老の言葉を、若い女が通訳した。
 タネはヤマヒトの集落に住むことになった。

(第十話へつづく)
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