2010.12.20更新
第七話
 

 ニンマショウは試練を終えたタネに秘薬の製法を伝授した。
 そしてその数日後、二人は結婚した。
 稲刈りの祭が終わり、冬にさしかかろうとしているときであった。

 ニンマショウはその実験を何者にも秘していた。もとよりニンマショウの実験は全て秘して行われるものだが、その実験は特に秘して行った。
 実験は生誕に関するものであった。
 ニンマショウは、自身と人外の者(時には無生物)との交合の実験を繰り返していた。しかし、その全ては失敗に終わっていた。
実験の成功とは即ち、人と人以外のものとの間に子をなすことである。
 精子の中には無数の小さい人間が居て、それらは母の胎内で食い合い、肥大し、赤ん坊になる。
 その考えをニンマショウは証明しようとしているのである。
 実験の結果は自身の考えを否定するものばかりであった。
 なぜニンマショウはその考えを疑わなかったのか。疑わなかったわけではない。疑い続けた。その末の実験だったのである。
 疑い、自身の考えを否定し、新たな考えを構築し証明するにはニンマショウは老い過ぎていた。ニンマショウは自分の考えに一生を捧げる覚悟だったのである。
 もし自身のその考えが間違っていたとしても、そこから得た経験は娘であるタネが引き継いでくれる。
 現代であれば、本を著し自分の経験を広く世間に知らしめ、共有の知として残すことも可能であったろう。
 ニンマの一族は口伝を持って知を次の世代に残し、蓄積させていったのだった。
 ニンマショウの物事を考える際の時間の感覚は当時としては稀有であったと思われる。一代で研究を完成させなければという感覚と、自分の研究を糧として後代に伝えるという感覚の両方を持っていた。近代的な感覚だったとも言えよう。
 ニンマショウは精液の中の小さな人間を大きく育てるためには、決定的な何かが足りていないと直感していた。人同士の交合にはそれが確かにあるのだ。

  二人の婚礼はひっそりと行われた。
 実の娘との婚姻が村人たちの中に反感を抱かせることはニンマショウも重々承知していたのだった。
 式にはアオキカンシジとヘノコギキョウウのみが参列した。手伝いにアオキ村とヘノコギ村から女がそれぞれ二人づつやってきた。
 二回目の結婚である場合、慣例として先祖の墓へは参らないことになっている。
 ニンマショウの屋敷で全て執り行われた。
 アオキカンシジもヘノコギキョウウも飯を食い酒を飲むと、日が落ちる前に手伝いの女たちを連れ帰っていった。
 屋敷にはニンマショウとタネだけになっていた。
 タネの心中は複雑であった。ニンマショウは実の父である。慕ってはいるが、恋慕とは違う。
 しかし最早ニンマショウの行いは、タネにとって運命のようなものであった。ニンマショウが決めたことは即ち正しいことなのである。
 この辺の感覚には理解し難いものがあるかもしれない。
 現代においても我々は情報に生活を左右されることがある。現代では情報が溢れており、我々はそこから正しいと思われる情報を峻別し、情報から得た知識を駆使して行動を選択する。
 タネはニンマショウから得る極端に少ない情報のみを己の行動を決める材料としていた。無論、感情や感覚も行動を決める上で重要な要因ではあるが、外部からの情報が自らの感情をも抑圧しうることを我々は知っている。共同体を営む上でそのことは重要な役割を持っていると言えよう。
 ニンマショウはタネとの結婚に罪悪感を持っただろうか。
 それに似た感情は抱いたかもしれない。しかしそれは禁忌を破ることへの多少の畏れであって、タネに対するものではないようである。この婚姻は、タネにとっても最良の行動であるという確信を、 ニンマショウは持っていた。
 ニンマショウの屋敷は大きく3つの部屋に分かれていた。
 一つは大きな部屋で囲炉裏があり、土間には水桶、味噌樽、炊事用の竈などがあった。居間と炊事場と食堂の役割を兼ねた部屋だ。
 もう一つの部屋は、大きな部屋と土間で繋がっており、寝室として使われている。
 ニンマセイの代など、弟子が大勢居た時はここに弟子たちが寝ていた。
 もう一部屋は庭を挟んで建っており、大きな竈が一つと、小さな竈が3つあった。大きな竈に大鍋をかけ馬を煮る。小さな竈は様々な実験に使われる。
 この部屋は絶えず異臭があり、また毒性の強いものも置いてあるため施錠されていた。当時、民間の屋敷に施錠された部屋があるのは稀であった。特に通貨がそれほど流通していなかった、田舎ではなお更である。
 錠前も簡素な物ものしか流通していなかった。
 鉄加工の技術は農具や武具の製作の過程で飛躍的に進歩していったに違いない。この時代にもかなりの程度の技術があったと思われる。
 鍛冶屋たちは砂鉄を集め、炉で溶かし、玉鋼を作り、それを加工して農具や武具、さらには錠前の如き細工物をこしらえたのである。
 錠前の設計には相応の知識が必要であったし、成形にも相応の技術が必要であったはずだ。鍛冶の能力である。
 アオキにも鍛冶屋は居た。アオキの鍛冶屋は、鍛冶が出来る農民と言った風情で専門の鍛冶屋ではない。彼らの仕事は主に鉄製の農具のメンテナンスであった。錠前のような細工は出来ない。
 さて、ニンマショウの屋敷の錠前である。
 それは鉄製で、掌ほどの大きさであり、鍵穴を持っている。鍵を差込み回転させると、固定されていた棒が開放される仕組みだ。その精度は素晴らしく高い。
 市井に流通している錠前とは比べものにならない程精巧であった。
 なぜそれ程の品がニンマショウの屋敷で使用されていたのか。それは後に明らかにされよう。
 屋敷の屋根は茅葺である。柱の下部は土中に深く埋め込まれ石で固定されている。床にはゴザが敷いてある。ゴザの下には木の板が敷いてあり、地面の冷気を遠ざけている。農家の多くが土の上にゴザを敷いた粗末なつくりであることからも、ニンマショウの屋敷が手間をかけて造られたことが読み取れる。
 ニンマショウとタネは婚前も同じ部屋で寝ていた。
 ゴザを数枚重ねて敷き、夏は布をかけ、冬は綿の入った半纏をかけて寝た。半纏は上等なものが一枚と、薄くなったものが一枚あるきりである。
 当然のようにタネは上等なものをニンマショウに、薄くなったものを自分で使う。

  初夜である。
 さて、近親姦のタブーについての私の見解は先にも述べたとおりである。繰り返すと、近親姦に対する嫌悪感は本能的なものではないのではないかと私は推測するのである。
 ニンマショウとタネの心情を考察してみることにする。
 タネにはニンマショウ以外に頼れる者が居なかった。全てを判断する規範をニンマショウの規範から学び、生きる技術を学び、どうにか自分をニンマショウに重ねようとした。意識的にも無意識的にもニンマショウと同じになろうとした。
 タネにとってニンマショウとの交合はその結実でもあった。ついにニンマショウと一つになれる。タネがニンマショウになる瞬間でもあった。しかし、そこには違和がある。
 その違和は「自身で決め行動する」ニンマショウと同一化したいと願うタネが、ニンマショウと結婚し交合することで「自身で決め行動する」ことを放棄しなければならない、つまり「他者に従い行動」しなければならなくなるという矛盾であった。
 イヌが亡くなったあと、二人はずっと一緒に暮らしてきた。ニンマショウはタネの守護者であった。それは結婚した今も変らないであろう。
 しかし今、ニンマショウはタネとの交合に強い罪悪感を抱いていた。この感情が本能から来るものではないと仮定するなら、一体どこからやってきたのであろうか。
 男性の性欲は攻撃欲と強く結びついている。相手を組み伏せ、体内に異物を挿入するのである。それは能動的で、攻撃的ではないか。男性が女性に比べ攻撃的であることも忘れてはいけない。
 ニンマショウが抱いた罪悪感は、タネとの交合が守護すべき相手に対する攻撃を想起させることに起因しているのではないだろうか。
 そしてその罪悪感は、また背徳の甘美さをもニンマショウに感じさせた。それが甘美であればあるほど、また罪悪感も増すのである。
 ニンマショウは、この行為を自身の心中で正当化しなければならなかった。
 ニンマショウは自身の欲望からタネとの結婚を決めた。しかし、その事実はニンマショウ自身の手によって、ニンマショウ自身に対し、巧妙に隠蔽されていた。ニンマショウの潜在意識が、顕在意識にそれを気付かれないようにしていた。
 
 ニンマショウはまず、人と人の交合についての正しい知識を得ようとした。
 ニンマショウはタネに自身の実験についてよく説明した。これまでこの実験に関する全てはニンマショウ一人の秘密であった。
 二人は秘密を共有することになった。
 ニンマショウはタネの中に射精し、タネの体液と混ざった精液をすくい出し集めた。
 二人はその体液を観察した。乾燥させ、水に落とし、様々に観察する。
 朝は農作業、昼は実験観察、夜は交合をしてすごした。
 その日々が二人にとっての蜜月であった。
 
 冬になりタネが失踪した。
 森に薪を拾いに行ったまま帰らなかったのだ。
 その年は天候が不順でドングリなどの木の実が少なく、熊たちが村の方に出てくることが多かった。
 ニンマショウはタネを探して森を彷徨った。しかし、その痕跡を見つけることはできなかった。
 一月たった。冬の森で一月生き抜ける人間など居ない。まして、タネはまだ10代前半の少女だ。
 ニンマショウの傷心にアオキの人々は驚いた。
 ニンマショウも人の子であったかと村人たちは囁き合った。
 タネの失踪以来、実験も止めてしまった。
 ニンマショウは再び一人に戻ったのだ。しかし、昔一人だったニンマショウとは変わってしまっていた。今は孤独だった。
 イヌと出会い、タネと出会う前のニンマショウは、閉じた一つの塊であった。それは矮小で頑固で、しかしそれ故に強固であった。今のニンマショウは開いている。手を差し伸べた状態である。その先には何かを繋げる可能性を持っている。しかし、一つでは弱いのだ。何かと結ぶ可能性は、拡大する可能性であるが、同時に欠けたままである可能性でもあるのだ。
 今のニンマショウには何かが欠けていた。一人で満ちていた時代はもう戻ってこないのだ。欠けた何かを補わないといけない。
 タネの存在はニンマショウの中でとても大きかった。
 タネは子であり弟子であり妻であり、そしてニンマショウの半身でもあったのだ。
 この時代、死は身近であった。死別は日常であった。故に人々は死別を乗り越える術を知っていた。宗教もその助けになっていたが、人それぞれが独自の防衛法を見つけ、誰かと死別する度にそれに習熟していった。人は死に強かった。
 ニンマショウは生と死の研究を行いながら、実は死に対して脆弱だったのである。その脆弱さがニンマショウをして、生と死の研究に向かわせたのかも知れない。
 ニンマショウの屋敷は村から離れたところにあり、極少数の兄弟弟子たちと、師父と暮らしていた。兄弟弟子たちと死別することもあったが、彼らは長じる前に亡くなることが多かった。その死はニンマショウの心をそれほど揺さぶらなかったのである。当時からニンマショウは一人で閉じていたのだ。
 ニンマショウにとっての大きな死別は師父とのものとイヌとの死別だけであった。
 しかし、ニンマショウは師父に対して、思慕の情と殺意にも似た強い憎悪の情を同時に持っていた。故に師父の死はニンマショウにとって一つの区切りのようにしか感じられなかったのだ。
 イヌの死はニンマショウを大いに傷つけたが、タネが居た。ニンマショウは自らの空洞を娘のタネで埋めることが出来た。
 タネの消失はニンマショウにとって未曾有の出来事であったといえよう。成熟していたかのよう見えていたニンマショウの人格は実は未だ幼く対象の喪失に耐えられるものではなかった。
 ニンマショウには両親に対する恨みの念が強くあった。それは普段、顕在化することはなかったが、底には恨みが横たわっていた。
 生と死の実験にとりつかれた背景にも両親への恨みが潜んでいようことは容易に想像できる。生と死の秘密を暴くことで、自ら生へ復讐しようとでもしているようではないか。
 タネを失ったニンマショウはその空洞、その孤独を、飢えへと変え、秘密を暴くサディスティックな渇望へと変えて行った。
 ニンマショウは再び実験を開始した。春になっていた。
 
 人同士の交合にあって、人と人外の者との交合にないもの。
 それは雌雄の差ではないかと考えたニンマショウは、雌鶏と交合した。
 牝馬とも交合した。この時、肋骨を折る。
 ニンマショウは動物との交合をそこで中止してしまった。再度の骨折が恐かったのではない。動物との間の子を創ることは、ニンマショウの目的とは合致していなかったからだ。ニンマショウは自身の分身を創りたかったのだ。
 岩から産まれた自分。その本当の同胞を創りたいのだ。
 ニンマショウを突き動かすのは永遠への希求である。死への抗いでもあった。死への思慕でもあった。
 永遠とはつまり死であることに思い至っていなかったわけではない。
 ただその考えは隠蔽されていた。永遠が即ち死であることを確信してしまえば、永遠への希求は即ち死への憧憬となる。
 永遠を希求することは、死に抗いながら、死を求める、矛盾に満ちた欲望のように見える。
 果たしてその二つは矛盾しているのだろうか。生とは死に続けることである。ならば、永遠に生きることは、永遠に死に続けることではないだろうか。
 ニンマショウの思索と実験は続いた。
 岩の割れ目に精液を注ぎ雨に打たれぬよう、屋根をこしらえ、見守った。精液は岩肌に吸われかすかな染みと、特有の匂いを残しただけであった。
 女性的なものである必要がある。
 土に、水に、暖めた水に、竹の筒に、思いつく限りの物に精液を注いだ。その全ては失敗に終わる。
 何かが足りていない。
 ニンマショウは森を歩いている。
 夏になっていた。
 セミが鳴いている。地面からの熱気が草を透過してむせ返るような草いきれが満ちている。
 耐え切れず川沿いを歩く。
 思索は方々に散らばっていき、蚊を払いながらニンマショウは亡き妻イヌのことを考えていた。
 イヌが亡くなって10数年たった。その思い出は徐々に薄れつつある。イヌとニンマショウは確かに夫婦であったが、互いに情を通わせあえていたのだろうか。
 今度はタネのことを考えた。タネとイヌの面影が重なる。ニンマショウの中で二人は一つになっていきつつあった。
 桃の木がある。
 そこにあるのは知っていた。しかし、実をつけているのを見たのは久しぶりであった。
 御存知であろうか、「桃」の字の中にある「兆」には「二つに割れる」の意がある。「兆」の字は、古代に行われていた亀甲占いの亀甲が割れた姿を模したそうである。
 桃の実は二つに割れるのだ。
 目の前に果肉が二つに割れた桃がある。
 この時代の桃は現代の桃よりも小さく硬かったと推測する。甘みも水分も現代の桃よりも少なかっただろう。梅の実に近かったのではないだろうか。今の桃よりも割れ易かったに違いない。
 その桃の実は綺麗に割れていた。おそらく雨に打たれ水分を含み、そして含んだ水分を再び失った所為だ。
 裂け目は皮の内の熟した果実を晒し、その奥には種が見えた。
 ニンマショウは割れた桃の実をじっと見る。ニンマショウが割れた桃の実に女性器の隠喩を見たことは想像に難くない。
 桃の実の奥に種が見えたことが気になった。何かがわかりそうになっている。
 人の女性器の奥にも種のようなものがあるのではないか。
 その考えに至るのにそれほどの時間を要さなかった。ニンマショウはついに卵子の存在をおぼろげながら類推したのである。
 桃の実の奥に見た種と、自ら名付けた娘の名が同じであったことからも推測できるが、随分前からニンマショウは自身の思索の中ですでに卵子の存在を無意識的にしろ認識していたに違いなかった。
 割れた桃の実からのひらめきは単なる契機に過ぎなかったといえよう。
 しかしながらまた、契機無しには思い至らなかった発見であったかもしれない。
 ニンマショウは桃の木の隣の木に登り、枝から実を落とさぬように気を配りながら、その桃の実の裂け目に射精した。
 ニンマショウは桃の木の側に粗末な仮小屋を建て、桃の観察を始めた。
 見方によってはニンマショウは狂っているのかもしれない。しかし、狂気にしか切り開けない領域が、この世界にはあるように思えてならないのだ。

(第八話へつづく)
top