2010.10.20更新
第六話
 

 タネは洞窟の最深部まで這っていく。
 そこに行けと言われていたからだ。手探りで進む。
 一体どれくらいの時間が経過したのだろうか。もう丸一日はこうしているように思える。今が洞窟のどの辺りなのか判らない。男の着物は、普段着ている女の着物と少し勝手が違う。
 地面は濡れているようだ。洞窟はゆるく傾斜しており、奥に進むほどに低くなっているようだった。所々に浅い水溜りを感じる。服を濡らさない様にしないといけない。濡れた衣服は体温を奪うのだ。水は氷のように冷たい。
 心細かった。
 陰毛を剃り男性器が描かれた自分の下腹部に手を持っていく。それが力を与えてくれるような気がする。
 濡れた足先から体温が抜けていくように感じる。
 どうにか最深部についたようだった。
 闇だ。何も見えない。手指に触れる岩肌、強く触れると崩れる。
 ここが一番奥の壁であろう。
 座るところを探そうと壁や地面を探る。触っているうちに気付いた。壁には何かが彫ってあるようだ。
 何もすることがない。その何かを探り当てようとする。とにかく、目的があるだけでありがたかった。
 顔のような部分と胴体のような部分がある。どうやら人に近いものが彫ってあるようだ。ただ、胴体の部分がどうも読解し辛かった。腕が一本ではない。足なのか腕なのか判然としないが、何本かが絡み合っているようである。
 丹念に調べていってタネはやっと理解した。
 それは二体の人間が絡みあっている姿なのだ。一つと思っていた頭部は、二つの頭が密着して出来ていた。交合を表現したものであろう。
 判ってしまえばなんということはない彫刻である。しかし、タネにはまだ性交の経験はなかった。身近な動物たちの行動の観察と、ニンマショウから得た知識から、その概要だけは理解したつもりであったが、未だそれは自身の中で現実味を帯びてはいないのだった。
「ああ、これは交合の彫像なんだな」と思うのみである。
 タネは何とか湿り気の少ないところを見つけそこに座った。
 水の滴る音が聞こえる。断続的に聞こえるかさこそした音はどうやら虫が移動する音のようだ。それらの音は、暗闇の中で研ぎ澄まされた聴覚にはうるさいくらいだった。
 ただ、音がする。時折、滴り落ちた水滴が身体に当たる。それだけのことが多少の救いになるのだった。
 やがてそれらの刺激にも馴れてくると、それはほとんど気にならなくなった。出来る限り辺りを這いずり回り、刺激を求めていたが、それもしなくなる。
 ニンマショウから渡されたわずかばかりの食料を節約するため、苔や地虫を口にする。研ぎ澄まされた口腔の感覚が地虫の足の一本一本を知覚させる。虫の内臓。そこにかすかな甘みを感じる。
 自分の肉体と外界を隔てていた境界が曖昧になっていくようである。
 自分が崩れて溶けて外界と癒着しやがて外界の一部になるような感覚。自分が無くなってしまうかのような錯覚に焦燥感を覚える。焦燥感はやがて狂おしいほど強くなってくる。叫んでみる。呼びかけてみる。暴れてみる。それらの試みは虚しい。
 入り口に這いずっていく。こちらからは開かないようになっている木の扉を叩く。分厚く重い木の扉は振動を吸収しかすかな音しか鳴らない。耳をくっつける。外の気配を感じようとする。
 短い睡眠と短い覚醒を繰り返す。やがて睡眠と覚醒の境界もあやふやになってくる。眠っている間だけ光を見ることが出来る。ものの形を見ることが出来る。人と話せる。睡眠の時間が長くなる。やがては覚醒しながらも夢を見ることが出来るようになる。
 一体ここへ来てどれくらいの時間がたったのだろうか。
 全ての境界があやふやになり、自分が溶け出して巨大な何かと一緒になるような幻想が、強い現実感を持って襲ってくる。
 意識の焦点を自身の内面に向け、抗おうとする。
 音が聞こえる。夢なのか。ニンマショウが話しかける。
「タネ。良くやった。」
 辺りを見回す仕草をする。見回しても闇しかない。ニンマショウはどこだ? 手で探る。何も居ない。交合する彫像に手が当たる。
 彫像が動いている気配がする。ゆっくりと。蛇のように絡み合っている。触れていた手を離す。二体の蠢きが見える。重なり合う二体は溶けて混じり合おうとでもするように。その姿をタネは見ている。見ている? 見えるはずが無い。しかし、見ている。光りがどこから差し込んでいるのか? それともこれは夢なのか。
 黒光りする男と女の肌が見える。肌には汗が流れている。
 タネは呆然と立ち尽くしていた。体の芯を貫くような衝動を感じる。体中の筋肉が膨張しはちきれそうになり、硬直している。
 風が吹いている。風は入り口から吹きこんでくる。入り口を見る。扉が開く音を聞いた気がする。幻かもしれない。淡い光が洞窟の壁を照らし、それが乱反射して洞窟の最深部まで届くのだ。
 足音。人影。
「ショウ様?」タネはニンマショウの名を呼んだ。かすれて声にならない。
 人影は応えない。近づいてくる。
 これもまた幻か。
 幻でも良い。タネは思った。
 現実と区別のつかない幻はもはや現実ではないか。
 人影はタネの前に立っている。光の加減でその表情が見えた。笑っている。ニンマショウではない。男には下唇が無いようだった。

 タネが洞窟に入ってから7日が過ぎた。
 ニンマショウは洞窟に赴き、閂を外し蓋を取った。
 ニンマショウが猟師であったなら、このとき、洞窟の前に注意深く隠蔽された別の人間の痕跡を発見できたかも知れない。ニンマショウは鋭い勘の持ち主であったから。
 しかし、猟師のように土の上に痕跡を見つける技術は持っていなかった。
 やせ細り、衰弱しきったタネはニンマショウを見ても、ただまぶしそうにするだけだった。まだその現実を、幻のごときものだと理解しているのだろう。
 ニンマショウが近づくと怯えたように、後ずさる。
 ニンマショウは座り、ゆっくり声をかけ、これが現実であると信じさせる。
 やがてタネは試練の終わりを悟り、ニンマショウにすがりついた。
 その身体は木の枝のように頼りなく、か細かった。
 ニンマショウは気付かれないように、泣いた。
 タネを背負って家に帰ると、濡れた布で丹念に身体の汚れを拭いてやった。柔らかい布団に寝かせ固まった筋や肉を揉み解す。
 あらかじめ用意してあった粥を少しと、蜜を与えた。
 食事を終えるとタネは眠った。二人はまだ会話らしい会話をしていなかった。
 ニンマショウは恐ろしかった。タネが自分を恐れてしまうのが。タネの上に亡妻イヌを重ねていた。ニンマショウはタネとイヌを同一視し始めていた。
 タネに恋しているのだった。
 それはいささか奇異に映るかもしれない。ニンマショウとタネは実の親子である。
 多くの文化に近親姦のタブーがあるのはなぜだろうか? 本能的に近親姦に対する嫌悪を感じるのだろうか?
 例えば、実の親子がなんらかの事情で離れて暮らし、それとは知らず再会したとしよう。二人が恋に落ちることもありえよう。その時、本能は警鐘を鳴らすであろうか。
 近親姦のタブーは一緒に暮らした家族(つまり肥大化した自己の一部)との交合に対する嫌悪という一面と、属する社会の取り決めた禁忌という一面とで出来ているのではないだろうか。諸説あるだろうが、近親姦のタブーは本能的な嫌悪から来るという説を私は支持しない。
 ニンマショウの属する社会は特殊である。アオキ周辺の村社会の辺縁に属しつつ、ニンマの一族という呪い師の社会に主に属している。呪い師の社会を構成するのは、現在ニンマショウとタネのみである。
 ニンマショウはタネを娶ろうと考えていた。アオキの人々の規範から考えればそれはあまり好ましいことではない。アオキの中でもハラトの者たちの間では近親婚が行われることもあったが、それとて仕方無しでのことであった。ハラトの者たちはそれを恥じていた。
 タネはどう考えていたのだろうか。
 ニンマショウの元には村の者が相談に訪れる。また、街道を通ってニンマショウの元に薬を買いに来る商人たちは、ニンマショウの屋敷に泊まることもあった。
 そういう中には、まだ年若い男たちも居り、密かに思いを寄せることもあったに違いない。しかしそれはどれも淡いものであったであろう。
 父ニンマショウへの思いは独特であった。親子としての関係よりも、師弟としてのそれの方がより強かった。支配者と服従者との関係である。
 ニンマショウの父性は、タネの中のマゾヒスティックな希求を刺激するに足るものであった。タネはニンマショウに対して畏敬の念を抱き、それはまたニンマショウがそう仕向けたものでもあった。
 試練を終えたタネには静養が必要であった。
 ニンマショウはタネを世話した。それは非常に丁寧できめ細やかな気遣いに溢れていた。タネは困惑した。ニンマショウの献身は恋人に対するそれと同じ質のものであったのだが、タネには理解し難い。その優しさが空恐ろしかった。
 ニンマショウは、アオキカンシジの家に泊まっている旅人と会う以外は家に居て、タネの側についていた。
 試練から一月ほどたって、徐々に外を歩き回る回数が増えていき、近頃はニンマショウを伴わずに一人で歩けるほどに回復してきた。
 ある明け方、妙に目が冴えてしまったタネは屋敷のそばの森に入っていった。
 森には冬の気配があった。しんと冷えている。
 このところ暇に任せて洞窟でみた様々な幻覚を思い返す。
 果たしてあれは幻であったのだろうか。

 タネにはあの出来事が幻であったとは到底思えないのであった。しかし、現実のこととも思えない。
 洞窟に忍んできた男。
 それを現実ではなく、ましてや幻覚でもなく、神秘的な体験として捉えるには自分自身を説得する必要があった。タネは容易にそれをやってのけた。ニンマショウの教育により、その素地は充分に出来ていたのである。
 あれは死者の国の者だったに違いない。
 タネは男に問うた。
「お前は誰だ?」
「誰でもいい」
「お前は生者か、死者か?」
「どちらでも良い」
「何をしに来た?」
「お前を見に来たのだ」
「ここは闇だ」
「私は闇を見ることが出来る」
「私を見てどうする?」
「私はお前を奪うことにした」
 男は三度やってきた。三度目に男はタネを抱いた。破瓜の痛みをタネは感じた。
 男の声は、タネの頭の中で作り出されたものか、それとも実際に耳に入ってきた声なのか、判然としなかった。それは今こうして思い出してみても同じなのであった。
 試練を終えたタネは大人の人間として扱われる。ニンマショウから秘薬のつくり方を学ぶことになる。
 冬の気配を感じる森の中で、タネは自分が以前と違っているように感じていた。
 あの男のことを考えている。タネは、死者の国の者に心を奪われてしまったのだった。
 タネは懐妊していた。

(第七話へつづく)
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