2010.4.20更新
第三話
 

 イヌは憐れな女であった。
 イヌはアオキ村のハラトに生まれた。
 ハラトは村の西部にあり、主に狩猟を生業にする者たちが住んでいた。ハラトに住む者たちはハラトの一族と呼ばれていた。
 ハラトの一族の間では近親婚が行われることもあった。アオキの周辺では従兄弟婚までは許容されていた。それよりも近い間柄での婚姻は禁忌ではあったが、外から新しい血が入ってくる事が稀なため、ハラト一族の間ではより近い親族の間での婚姻もやむなしとされていた。
  祭の際に西の山を越えた向こうにあるイナダ村から若い者を連れて来て、アオキの娘たちと交流させるような習慣も絶えて久しい。
 そのような状況にあってもハラトに住む者たちと、他のアオキ村の者との婚姻は極めて稀であった。
狩猟は神職の側面も持っていたが、山の神の物を掠め取る職業として忌み嫌われることもあった。獲物は主に鳥類であったが、獣を狩る事もあった。故にハラトの者たちは、ヘノコギ村の者からもアオキ村の者からも特別な存在として見られていた。
 近親婚が行われているアオキの一帯の中でもハラトの一族は特に血の濃い一族だったのだ。
 イヌの父、ハラトのイノジは4人兄弟の長男で、妻のリキはイノジの実の姉である。
 イノジの狩猟の腕はアオキの一帯で一番であった。イノジはまた、弓矢作りの名人でもあった。
 弓を作るには質のいい竹が要る。アオキ村には竹が無い。川向こうのヘノコギ村には質のいい竹が取れる竹薮があった。
 しかしヘノコギ村の竹をイノジは使ったことがなかった。

  アオキ村の者とヘノコギ村の者は、代々の村長同士の尽力で表向き上手くやっているように見えた。
 呪い師の執り行う祭りの時などは二村が協力し祭りを盛り上げた。
 呪い師がニンマショウの代になってからは、ニンマショウと二村の間に何かと問題が起きたためその解決に二村が協力するような局面が増えた。おかげでここ数年は特に二村の関係も安定していたと言える。
 その昔、間を流れるメグロ川の利権を巡って二村の対立があった。
 5、6世代ほど前まではアオキとヘノコギは一つの村であった。
 ある年、雨がほとんど降らなかった。草木は枯れ井戸も枯れた。
 しかしカムキ山から流れるメグロ川だけは水量を減らしながらも流れていたのである。
 カムキ山は頂が二つあり、それぞれがカムキ山、カムサリ山と呼ばれていた。二つをあわせてカムキ山である。
 カムキ山はアオキの北方に位置し、西のマル山、東のオナガ山に挟まれ、一際高い。北からの旅人は東のオナガ山の方に回りこむ道をとることが多かった。
 それはカムキ山が険しく高いこともあったが、カムキ山は神の降り立つ山とされ、踏み入ることは許されていなかった。事情を知らない者が踏み入ることもあったが、決して帰ってくることはなかったとされる。
 山にはヤマヒトが住んでいる。ヤマヒトは、人ではない。神や妖怪に近い。
 時々村に来て、処女をさらっていったりする。山に入ったものを誘惑したり脅したり、殺したりする。山に迷い込んだ人間を助けたりもする。
 アオキの辺りに伝わる昔語りにこういうものがある。
 遠い昔、まだアオキがアオキと呼ばれていなかった頃。一人の若い娘が居たそうだ。
 娘は老いた両親と住んでいた。
 娘はカムキ山の向こうに住む男の家に嫁にいくことになっていた。
 娘の父親が、男の父親と約束したのだ。
 娘はまだ見ぬ夫のことを想い、老いた両親の代わりによく働いた。
 しかし、両親は娘を嫁に行かせたくなかった。父親は約束したことを後悔していた。
 ある朝、娘の家の前に黍(きび)の穂が一つ置かれていた。黍は結納の時、先祖の墓前に備えられる。
 それでも両親は娘を嫁にやらなかった。
 ある朝、娘の家の前に立派な雉が置かれていた。雉は式の時、皆で食べる。
 それでも両親は娘を嫁にやらなかった。
 娘は恐ろしくなった。
「山向こうの男はなかなか嫁に来ないあたしに怒っているのじゃないか」
 黍も雉も結婚に重要な役目を持つ。男が女にそれらを贈るのは暗に結婚を迫っていることだった。
 ある朝、娘の家の前に桃の実が一つ置かれていた。桃は夏祭りの時、その年嫁に行った娘とその夫しか口に出来ない。
 娘は思った。あたしの両親は自分の身可愛さに、あたしを嫁にやらないつもりだ。
 娘は両親に言った。
「あたしを早く嫁がせてください」
「それは出来ない。お前に行かれてしまっては私たちは死ぬ事になる」
「しかし、お父さんはあの方のお父さんと約束したのでしょう?」
「お前は、あの男をあの方などと言うが、お前はあの男のことを何も知らない。あの男はヤマヒトだ」
 娘は驚いてしまった。
 父親は若い頃、母親を娶るため、雉を追ってカムキ山に入った。そして禁を犯して山深くまで入り込んでしまったのだ。
 夜になり、山犬に襲われた。急いで木に登り難を逃れたが、山犬どもは木の下に居て待っている。降りれば父親は食い殺される、しかし、降りなければやがて力尽き落ちて食われる。途方にくれた。
 木のさらに上に光る目がある。
 毛むくじゃらのヤマヒトがこちらを見ている。赤い顔、赤い尻のヤマヒトは言った。
「困っているのか」
「困っている。あなたが助けてくれなければ私は死ぬ」
「ならば助けてやろう。ただし、条件がある」
「死ぬよりはましだろう。何でも聞く」
「俺はお前を助ける。お前は嫁を娶り、娘を授かる。娘が女になるまでお前は不自由の無い生活を送る。お前は娘を俺の嫁によこせ」
「わかった。しかしそうならなかったらどうする」
「そうなる」
 ヤマヒトは父親を抱えると木々を飛び移り、山の麓にまで連れて行った。
 父親は雉を取り、妻を娶った。そして娘を授かった。娘は良い娘に育った。
 娘を嫁にやるのが悔しくなってきたのだ。
 ヤマヒトとの約束を違えようとしていた。
 父親が娘に、婿がヤマヒトであることを伝えた翌日、娘は神隠しにあった。
 人々はヤマヒトに連れて行かれたのだろうと噂した。
 ヤマヒトとの約束は決して違えることが出来ない。だから若い人よ、ヤマヒトと約束をする時はよく考えてからするものだ。

 ヤマヒトとは何者なのか。
 何らかの理由で里を追われた者たちが山に入って共同体を作る事があった。そういう者たちを里のものがヤマヒトと呼ぶこともあった。
 アオキよりももう少し北の地域には棄老の慣わしがある。野山に置き去りにされた老人たちは共同体を作り、そこで畑を開いたり狩りをしたりして、死を待つのである。そういった老人たちをヤマヒトと呼ぶこともあった。
 山で出会う説明のつかない出来事を全てヤマヒトの所為にしていた節もある。
 カムキ山は神の住む山であったから、カムキ山に住むヤマヒトは神の眷属かもしれない。
 メグロ川はそのカムキ山からの伏流水を源流としている。
 メグロ川を上っていくと滝がある。滝は途中三筋に別れており、滝つぼでまた一つに束ねられまた川として流れている。
 そう大きな滝ではないが、断崖を落ちる滝のため下から見上げるとそのはじまりは空のように見える。三条の滝が美しく流れる姿はアオキの人々の心をひきつけ、古くからそこは聖地とされていた。
 滝はカムチタルと呼ばれていた。タルは滝の意で「垂る」が語源と思われる。アオキの周辺の人々は山の頂上のさらに上、空の向こうに神のような存在を感じていた。
 滝の水は神の世界から垂れ落ちた水なのである。
 カムチのカムは神、そしてカムチのチはおそらく「乳」の意であろう。
 白く泡立った三条の流れが母乳のように見えたに違いない。そして事実、この滝から流れるメグロ川の水がアオキの人々を育んでいるのである。

  件の干ばつの年、メグロ川の水量は極端に減った。
 アオキの人々はそれぞれの畑に水を確保しようと争った。飲み水を確保するために川の水を我先にと汲み始めた。村長と村の長老たちは、水を皆で均等に分けるための取り決めを考え皆に実行するよう言ったが、誰も従わなかった。
 そして、人々は対立するようになっていった。
 血も流れた。この争いが元で若い者が4人死んだ。4人とも急所に深々と矢が突き刺さっていた。
村の西に住むハラトの一族が作った弓矢が凶器に使われたのだ。
 この事件を機に、アオキは完全に二つに割れた。村は川を挟んで東と西に分断したのだ。
 村の東側はヘノコギ村として独立した。アオキ村が、この辺一帯の呼称であるアオキを村の名前としたことについても、ヘノコギ村の人々は反感を抱いたが、アオキ周辺の者たちの墓はアオキ村にある。
 先祖の霊が眠る場所がアオキ村にある以上仕方のないことだった。
 ヘノコギ村の者たちは先祖の霊に会う事が難しくなった。また、呪い師の所に行くにはアオキ村を通らなくてはいけない。メグロ川をさかのぼり、川を渡って直接行く方法もあったがそれには危険が伴った。
 ヘノコギの東には海に至る街道が通っていた。物資などはヘノコギを通らないとアオキに入ってこないのだった。特に塩が手に入らないのは問題だった。西から入ってくる塩は高価だったのである。
 二村が対立することは互いの村に不利益しか生まなかった。
 それでも二村の深刻な対立は三世代ほど続いた。
 闘争の当事者だった者たちが死に絶えたこと、それから二村が分断することで起きる不都合のおかげで次第にその関係は修復の方向に向かっていった。
 呪い師の活躍も一役買った。
 ニンマショウの四代前に当たるニンマケイは温厚な人物で、二村の間を行き来し間を取り持った。このときニンマの一族が村の中枢に入り込み権力を得ることも可能だったがニンマケイはそれをしなかった。
 そのことでアオキの人々はますます、ニンマの一族に頭が上がらなくなったのである。
 二村の対立は沈静化したが、それは政治的な側面だけであった。人々の心情はそう簡単に割り切れるものではない。
 表面上和解した二村だったが、小さな諍いは絶えなかった。
 お互い居心地の悪さを感じたままだった。
 そんな時、アオキ一帯で農作物の不作が続いた。それは原因不明のものであった。水も日も足りている。虫の発生も無い。しかしどうも作物の出来が悪いのだ。収穫量も減っている。
 アオキとヘノコギの村長や長老たちは集まって会議した。
 皆には思い当たる節があった。二村が分断してこの方、正式な祭を執り行っていないのだ。もう何年も略式のもので済ませてしまっている。
 皆、その事で胸に何かつかえているような思いがあったのだが、仕方がなかった。正式な祭をするとなると二村の全ての住民が協力する必要があったからだった。
 特に4人の若者を殺された恨みのあるヘノコギの者たちは、未だに強い遺恨を持っていた。
 村長たちは呪い師の助言を得て祭を執り行うことを決定した。
 二村の者たちに説明し、説得した。ヘノコギの者たちはそれでも納得いかなかった。
 祭を行うことの重要性は重々わかっている。そうしなければ作物はそのうち全く獲れなくなる。しかし、どうしても許せないのだった。血が濃いぶん怨みも濃いのである。
 子は恨み言を聞かされて大人になる。
 これでは埒が明かないと思ったヘノコギ村の村長はニンマケイの元に相談に行った。ケイはハラトの一族を祭りに参加させないことを提案した。
 こうしてハラトの一族はそれ以来、アオキの祭に参加できなくなった。未だにアオキ村とヘノコギ村の人々はハラトの一族に対して複雑な感情を持っている。

  ハラトのイヌはヘノコギ村の若者ヘジと恋に落ちた。
 それは誰からも祝福されない恋であった。ヘジはイヌの寝屋に夜毎忍び入った。イノジはそれを知り、イヌを自分の隣に寝かせることにした。
 ヘジはそれでも忍び入った。イノジの眠る隣で二人は息を殺し睦みあった。
 何度目かの夜、イノジは目を覚まし、ヘジはイノジに捕まってしまう。
 イノジはヘジを家族の元に連れて行き事情を話した。
 ヘジの家族はこのことを隠したがった。
 ヘジの曽祖父の弟はハラトの者が作った弓矢で射殺されていたのだ。
 イノジは、このことを機にまた両村が対立するようなことになってはいけないと思った。
 イノジとヘジの父親は当時の呪い師であるニンマセイの元に相談に行った。
 ニンマセイは二人を遠くへやることを提案した。
 そうしてヘジは、東の街道から来る商人に預けられ旅に出された。
 イヌはサカンヌマの城で下働きとして奉公することとなった。
 つまりイヌは売られていったのだ。

(第四話へつづく)
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