2009.12.18更新
第一話
 

 これは過去の物語だが現実の過去とは異なる。過去は誰のものでもなく、未来と同じように自由である。いや、未来よりももっと自由かもしれない。

 昔々の話。もう誰にも本当のことはわからない。
 日本はまだ日本とも呼ばれていなかった。
 世界は狭く、大抵の人にとって自分の生まれた村や町、かろうじて隣の村や町くらいが、世界の全てで、どうやらその向こうにも世界は広がっているらしいが、伝え聞くことがたまにあるくらいのことであった。
 現代よりも人々の寿命は短く、将来を見通すことも難しく、その日を生きることに精一杯だったと思う。自分の生まれた場所から外に出ることは、よっぽどのことであった。一生に一度でも村を出て聖地を詣でられれば最高の幸せであった。特に田舎の小さな村などでは。
 行商人や旅人の話はとても貴重で、皆をわくわくさせた。旅人は丁重に扱われ、もてなされ、見返りとして土産話を請われた。
 土産話を請われる旅人たちの中にも話の面白くない者はいる。しかし、接待を受け、その代償に面白い話を要求されるのだから、何か面白い話をしないといけない重圧はかなり強かったに違いない。自然と話には尾ひれがついた。
 俗人の旅は徒歩であった。馬はもっぱら農耕に用いられていた。
 山や谷も自力で歩かないといけない。旅馴れた人と言えどそれは困難なものであった。
 今なら電車や車で30分の距離も、運良く迷わず歩けて3時間か4時間はかかった、山に隔てられでもしていたらそれこそ一日がかりだった。命を落とすことも充分考えられるだろう。旅にはそれだけの危険が伴った時代である。
 特に山は難所であった。野生の動物が居た。山賊の類や、訳あって人里に暮らせない者たちも居るだろう。雨や風、寒さや暑さも恐ろしい敵であった。夜も。

 男は旅の途中だった。
 日は暮れ始めていた。急ぐ旅であった。身重の妻を置いて出たのだ。
 そもそも気が乗らなかった。男の主人が頭を下げて頼むので、断るわけにもいかず旅立った。男は旅馴れていて主人からの信頼も厚かった。
 男の名はソキという。
 ソキの主人は今で言う貿易商のような商いをしていた。各地に部下を配し、どこで何が不足しているのか、何が余っているのか調査し、その情報に即して品物を流通させるのだ。こう書くと簡単でぼろい仕事のように思えるが、ことはそう簡単では無いだろう。情報にはタイムラグがあり、そのずれを読んで商品を動かさないとならない。
 ソキは貧しい家の出身であったが、主人に才能を買われ雇われた。
 ソキには妄想知覚とも言えるような感覚が備わっていた。
 聴こえないものが聴こえたり、見えないものが見えたりする。
 そもそも私たちは見ているが、見えていることが本当にそこにそれが存在する証拠にはならない。
 私たちは触れるし、聴こえるが、それもまた、それがそこで起こっている証拠にはならない。私たちは知覚することで、そこにそれが存在していることを推測しているに過ぎないのだ。
 目や耳、鼻、舌、皮膚といったセンサーから入った情報は一度、「何か」を通って、意識に至る。
目や耳から入った情報が、「何か」を通って脳に至っている感覚は皆さんにもあるだろうと思う。その「何か」が何なのかはわからない。もしかしたら無意識のような領域を通るのかもしれないし、単に神経を通って脳に行っているだけかもしれない。
 ソキは情報をセンサーを使わずに得ることがあった。
 その「何か」の部分で知覚情報がフッと生まれることがあった。ソキ本人にはその情報が実際に知覚されたものなのか、「何か」で急に生まれたものなのか判別することが出来なかった。
それは現代では病気として片付けられてしまうような能力だったかも知れない。
 ソキのそれは見えないものを見抜く目として重宝された。
 一種の勘のようなものだと思っていただければ良い。
「勘」は信じれば信じるほど当たるものである。
 そこに迷いが入りこむと勘は曇る。純粋な勘は深層意識の計算から導き出された答であって、無意識の声と言っても良いのかも知れない。
 そこに意識や論理や常識や経験が口を出してしまえば勘も雲って当然だ。
 霊能者の一部はその無意識の声を何か霊的なものの声として聴くから、表層意識からの干渉を受けずに、信じることが出来るのではないか? 
 つまり、良く理解の出来ない自分の中から出た「勘」のようなものよりも、神の言葉の方が信じやすいという話だ。しかし、その二つは実は同じものであると思う。
 ソキはその妄想知覚とも呼べる感覚で物事の本質を無意識に見抜くことが出来た。その確率は五分五分で、全くの出鱈目であることもあったが、それでも神秘を感じさせるほど正確なことがあったから、ソキは一目置かれていた。
 こういった能力を持った人々は現代にも一定量居ると思われるが、教育や、情報の過剰摂取によってその能力を埋没させてしまっている。
 幸いにしてその能力を持ったまま成人した人物は、社会に適応できずに苦しむか、芸術家のような社会とは少し外れた仕事につくのである。

 ソキは後悔していた。
 この仕事を断っておけばよかったという後悔はもとより、昼の時点で宿をとっておけば良かった。
 少し考えればわかることだった。山の中腹で日が暮れてしまうことくらい。
 いや、ソキにはわかっていた。予測できていたのだ。
 気持が無防備になっていた。
 ボーっとしていた。仕事を終え帰路についた安心感もあったのかも知れない。そして何か自暴自棄な気持にもなっていたのだ。死への欲望だったのかもしれない。当時、タナトスと名付けられた欲望はまだ発見されていない。
 ソキは自身の中に在る死への欲望を、死からの誘いと受け取った。
 昔、死は自身の外にあり人を誘うものであった。死は欲望する対象ではなかったのだ。人が死を欲望するのではなく、死が人を欲するのだ。
 自殺に向かう衝動もそれは、自身の中からでたものとは理解されず、外界からの誘いととられた。外界から死へ誘うものがある。人はそこに妖の姿を見つけ、恐れた。
 ソキは疲れとちょっとした自暴自棄から来るミスを、山に住む何者かの所為にした。
 ソキのこの態度は外部形成的であるが、当時の人々は、今の人々よりも、何かに生かされているという感覚が強かったため、自分の行動が、そのモチベーションが自身から出ていると理解するよりも、何かに導かれたと理解することの方が容易かったに違いないのだ。

 ソキは山の中腹辺りで一歩も動けなくなってしまった。ついていないことに今日は新月である。いや、ソキは今夜が新月であることも知っていたから、運の所為ばかりではない。いよいよソキは自分の命を狙う何者かの存在を疑い始めた。
 誰かが私を死に誘っている。
 真っ暗なのだ。かすかな星の明かりも森が吸い取ってしまう。目を瞑っても開けていてもほとんど変わりが無い。新月とは言えこんな闇はついぞ経験したことが無かった。目は慣れるものである。ソキのように夜目の効くものならなおさらである。
 今日の夜は違った。
 一切を濃厚な闇が覆っている。質量をもったような闇だ。
 その闇を行くのは深海を行くような感覚であった。が、ソキには深海という概念が無かったので他に喩えるものも見つからない、ソキは死を思った。
 自分は死のふちに立っているのではないか。
 ともするともう死んでいるのかも知れない。
 ソキは海の側の村で生まれた。神は海の向こうに住み、死者の国もまた海の向こうにあると信じていた。村では死者を川に流す。川が死者を海の向こうまで運んでくれるのだ。
 仕事で山の中を歩くようになると、山の先は海の向こうに通じているのではないかと思うようになった。海の側に住む者は海の向こうに神の国を見、山に住む者は山の中に神の国を見た。ソキはその両方を見ていた。
 当時、当たり前のことだが行楽としての登山はまだ確立されていなかった。ほとんどの登山が移動のため山を越えるのが目的であったから、頂上を極めようとする者はよほどの変わり者か、山岳信仰の信徒たちだけであった。
 旅人は頂上を迂回して歩いたに違いない。
 山には神や物の怪が住んでいた。山は異界であった。特に高山となればなおさらである。山のものは、神や物の怪の所有物であった。
 猟師たちは山に入って山の神から獲物を分けていただく。獲物をトルわけではないのだ。故に猟師には神官のような側面があった。
 話は横道に逸れたが、逸れたついでにもう少し当時の山行きについて想像してみよう。
 高山に登ると気圧は下がり、酸素も減り、息苦しくなっていく。私たちはその理屈を知っているから別段なんとも思わないが、もし、何も知らずにそれに直面したらどうだろうか? 3000m級の高山ともなると、頂に近づくほどに体は苦しくなり、森林限界を越える頃になると、辺りは死の気配に包まれる。当時の人々は山を登りながら生きながらにして死の世界に踏み入るような感覚を持ったのではないか。薄い空気に酸欠気味になった脳は人に神や悪魔の姿を見せたかも知れない。

 さて山の中、この山は低山であったから右の考察のようなこととは無縁であるが、しかしその闇は死の世界を思わせるに足る異質さであった。
 ソキはどんな音も聞き逃すまいとしていた。鼓膜の感覚、足の裏の感覚、皮膚の感覚、それらを剥き出しにした。
 草を踏む感覚がある。その草が若く柔らかいものなのか、それとも強く固い茎のものなのか、葉は厚いのか薄いのか、そんなこともまで感じ取ろうとする。
 道は獣道である。舗装された道ではない。
 獣が通ったあとを人が踏み固めて出来た道だった。道かそうでないかの違いは、草の生え方くらいで、たとえ昼間でもそこが道であるとは判別し辛かった。
 ソキはそれを足裏の感触だけで感じようとしていた。履物は藁を編んで作られていた。草鞋のようなものであるが、山道を行くためにつま先の部分が袋状になっており、ちょうどスリッパと草鞋の間の子のようなものと思っていただければ良い。
 足裏から伝わる感触でそこが道であるかどうか確かめる。その作業は困難を極めた。
 ソキは道を行く事を諦めた。

 とにかく安全に一晩過ごせる場所を見つけて夜明けを待とう。
 ソキは大木を探していた。日があった頃、辺りには杉の大木が何本もあった。登って眠るための大木を探していたので杉は適さない。枝の位置が高いからだ。
 杉に混じって低く太い木が生えているのをソキは知っていたから、それを探しているのだ。
 しかし、不思議なことに手探りで進むソキの手には何も触れない。
 まるで空っぽな空間に放り出されてしまったようなのだ。
 山の傾斜すら感じられない。ソキはもう登っているのか、下っているのかさえわからなくなってきた。
 その心細さは、全てのつながりから切り離されてしまったような圧倒的な孤独であった。ソキはまるで大海を浮遊する一個の枯葉のようであった。
 ソキは一歩も動くことが出来なくなってしまった。
 その場にしゃがみ込むとついには尻を地についた。空を仰いでも何も見えない。ソキはもう自分が目蓋を閉じているのか、開けているのかわからなかった。
 ソキは生きたまま死者の国に迷い込んでしまったようなのだ。
 そう思うと真っ暗な視界に何か濃淡があるように見える。
 闇の濃さが違うのだ。それを観察することに集中し、恐怖から逃れようとソキは闇を見た。
 目を瞑ってさらに目蓋を手で覆ってみて欲しい。それでもなお暗闇の中に明かりが見えるはずだ。
 それは電光のようで、有機的な模様をなしている。作者はこの光の正体を知らないが、確かに何かが光っているように見える。ソキはそれを見ていたのだ。
 ソキが闇の中に見た光の形は無意味に見えた。それは見ようと思うから見えるのか、見ようと思わずとも見えるのか、わからなかったが、次第に形を変え、まるで小さな流れがそこにあるかのように蠢いていた。
 ソキは海流のうねりを思い浮かべた。
 魅入られたようにその光を見た。
 光はうねり、蠢いて、強さを増し、やがて集まって形を作っていくように見えた。
 ソキはその光が何かを形作ったことを最初、気づかなかった。ただ見ていた。
 ただその光に魅了されていた。それが何かしらの意味をもった一つのゲシュタルトであることをしばらく理解できないでいた。
 光には目玉があり、大きな口があった。
 ソキは恐ろしさのあまり目を瞑ったが、すでにソキの瞳は閉じられていたのだった。
 光の顔からは逃れられなかった。
 光の顔が笑ったように見えた。
「誰だ」ソキは叫んだが、その声は闇に吸い取られたように小さかった。
 光の顔がまた笑った。
「私は死者の国の王である」
 光の顔がそう言ったように思えた。
 ソキは恐ろしさに気を失いそうになったが、なんとか踏みとどまり言った。
「私はソキという名の旅人である。何故私の前にあらわれたのだ。私は普段から山の神、海の神、死者の神を敬っている」
 死者の王は黙っていた。ソキと死者の王はしばらく見詰め合っていた。
 ソキはその間、気を失わないように、己の下唇を強く噛んでいた。そして、下唇を噛んだままソキは笑った。
 鬼に会った時は笑えという、旅人たちの間でのしきたりを思い出したのだ。
 死者の王は、下唇を噛んだまま笑うソキの顔を見て、笑い出した。
「お前は私を見ても気を失わなかった。私はお前の命をとらないことにする。私はお前を気に入った。お前に良いことを教えてやる」
 そして、死者の王はソキに何事か囁くと、その姿はまた形を持たない光に変わった。
 ソキは翌日、山の中で目を覚ました。
 山を下り、妻の元には帰らず、そのまま行方をくらましてしまったそうである。
 この話は山を降りたソキに山裾の宿で出会った旅人が、語った話である。
 ソキの下唇は強く噛みすぎて千切れ、下の歯が剥き出しになっていたそうである。ソキはそこから涎をたらし、剥き出しの歯は常に笑っているような印象を与えたそうである。魔を払う笑顔をソキは その顔に常に湛えていたのである。

 死者の国の王がソキに何を語ったのかそれは誰にもわからない。
 噂では、ソキの子がいつかソキを殺すとの予言だったとも、死者と生者を分ける境界の越え方を伝えたのだとも、言われているが本当の所はわからない。ソキには妻も子もなかったという者もあり、旅先で出会った女との間に子をなしたという人もある。子をなしたのは死者の国の王と出会った後だとも、前だとも言われている。
 この話がいつ頃の話なのか。旅人たちの口に上り始めたのはいつなのか正確なことはわからない。ソキが実在の人物かどうかもわからない。
 ソキという男の話は旅人に好まれ色々なバリエーションをもって語られた。
 このアオキ村に来てソキの話を語った旅人は、山の死者の王を「鬼」として語り、その鬼こそが今、都を荒らしている鬼だと言った。

(第二話へつづく)
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