2010.4.9更新



 転がっているあいだは意識があったが、なにもかもが吹き飛んでいく様だった。世界、イノシシ、映画、女性、家族、食べ物、山菜、己にまとわりついた、なにもかもが吹き飛んで、人間はこうやって記憶がなくなっていくのだと思った。途中木の幹に頭をぶつけたが、意識が飛ぶことはなく、その痛みと感触はしっかり覚えている。亀岡は昔から石頭だった。
 下まで転げ落ちると、足に激痛が走っていた。頭を打ったことに気をとられていて、足のことは気にしてなかったが、転がっている最中に折れた木に足を引っ掛けてグキっと嫌な音がしたのだった。あのときに足を挫いたらしい。
 斜面の下で、仰向けに転がった亀岡。空には、それを馬鹿にするような、雲一つない青空が広がっている。山の奥の方から鳥の鳴き声が聞こえ、流れる小川の音が、のどかに響いている。
 頭は痛かったが、足の方が心配だった。そして恐る恐る立ち上がってみる。嫌な予感はしていたが、一歩足を踏み出すとやはり想像通りの事態になっていた。右足には激痛が走り、バランスを失い、転びそうになった。
まともに歩くことができない。果たして自分は、宿まで戻れるのだろうか? そう考えると恐怖が襲ってきて、足の痛みもなくなった。しかし一歩踏み出すと、やはり足は痛かった。
 とにかく小川まで歩いて行くことにした。そこはさっきオニギリを食べた場所で、歩いて30秒くらいのところだが、一歩を踏み出すごとに、右足のくるぶしに激痛が走る。さらに足場は石がごろごろしていて、なかなか前に進めない。二足歩行が困難である。そこで亀岡は、四つんばいになって前に進むことにした。
 膝をついて、手をついて、虫のように這って進んでいく。なんとか小川までやってくると、靴を脱ぎ靴下を脱いで、足を水の中に浸した。春先の小川は雪解け水で、脳天まで冷たさが走り、全てが真っ白になった。
 そして、浸した足は、痺れて感覚が無くなってきた。
 1分ほどそうしていたが、冷たすぎて、すぐに限界になった。
 しばらくその場に座って空を見上げていると、斜面を転げ落ちたことなど忘れそうになったが、冷たさで感覚の麻痺した足には、また痛みが戻ってきていた。
 もう一度靴下を履く、それだけでも、痛みが走る。靴を履いて立ち上がると、さらに痛みが走る。足を一歩踏み出すと、とんでもない激痛が走り、前には進めなかった。暗くなる前に宿に戻らなくては、確実に遭難してしまうだろう。とんでもない恐怖が襲ってくる。登山道に出るまでにはまだ、この石の転がる小川沿いを行かなくてはならない。
 ここは、もう、四つんばいになって進んだ方が良さそうだと亀岡は思った。そして、再びゴツゴツした石の上に手をつき、膝をついて、進んでいった。そんな自分の姿は、まるで怪我を負った野生動物のようで、それを狙った他の野生動物に襲われはしないかと、亀岡は心配にもなった。
 ひざ頭が石に当たって痛い。手のひらに石や砂利が擦れていく。
 しかし、とにかく進まなくてはならない。
 今、四つんばいで進んでいる辺りから15分ほど行けば登山道に出るのだが、亀岡は、この四つんばいが永遠に終らないような気がしてきた。二足歩行なら15分のその距離は、結局1時間もかかった。目的の場所は見えていたのだが、進めば進むほど、それは遠のいていくようだった。
 登山道に出たので、亀岡はひとまず休むことにした。いや休んだというよりも、もう限界がきて、そこに倒れ込んでしまった。仰向けに倒れた視線の先には、青空を遮る木が鬱蒼と茂っている。ブーツの中で、足が膨らんでいる。
 30分倒れ込んだままでいた亀岡は再び立ち上がった。ここからは、安定の悪い石ではなく、地面は土なので、四つんばいにならなくても、痛みを我慢すれば、なんとか二足歩行で進むことができるだろう。
 亀岡は折れた枝を見つけ、それを杖にして歩きはじめた。先程よりも進むことはできる。しかし帰りは下りなので、急勾配のところは足を踏ん張らなくてはならず、そのようなときは、座って尻を引きずりながら前に進んだ。おかげでズボンの尻の部分は、泥で真っ黒になった。
 行きは1時間の道程であったが、結局、3時間かかって、亀岡はようやく宿に戻ってきた。
 撮影隊はすでに宿に戻ってきていて、宿の前の駐車場で、明日の撮影の準備をしていた。スタッフの一人が亀岡が戻ってきたのに気づいて、「亀岡さん戻りましたぁー」と大声で言った。
 スタッフは一斉に亀岡を見たが、皆は言葉を失った。足を引きずり、顔も手も泥だらけで、頭にはタンコブができていた。亀岡はスタッフの皆に深々と頭を下げた。
 亀岡が戻ってきて問題になったのは、次の日からの撮影のことだった。亀岡の役どころはイノシシ一族、山賊の一味であるから、山の中を走り回るシーンが沢山あって、撮影はまだ残っている。しかし、今の状態の亀岡には、そんな演技はまったくできそうにない。そこで撮影予定では、もう少し先であった亀岡がイノシシに捧げられて食べられるシーンを急きょ次の日に撮ることになった。
 このシーンは亀岡が仲間を裏切ったと勘違いされて、イノシシの生け贄になるシーンで、脚本上では映画の後半にあるのだが、監督が一日で脚本を書き換え、亀岡は早めに生け贄にされてしまうことになった。
 そして亀岡は、撮影を終えたら、撮影現場を去り東京に戻ることになった。
 亀岡は恐縮しまくっていたが、このようなトラブルは、逆に撮影隊の団結力を高め、スタッフ達も「気にしなくていいよ」と言ってくれた。
 イノシシの毛皮の衣装に着替えた亀岡は助監督におぶってもらい、撮影現場まで行った。
 このシーンは、本来ならばイノシシ一族と亀岡の立回りもあったのだが、既に暴行を受けた後という設定になっていて、頭にできたタンコブも、それを強調するようなメイクをほどこし、亀岡は地面に座って、イノシシ一族に取り囲まれていた。


「山伏サンダーキラー」 シーン64

 ―― 山奥のイノシシ一族の拠点
    洞窟の前で、イノシシ一族の手下D(亀岡)が、一族に取り囲まれている。
    イノシシ一族A「おめえが、やんったんべ、おめえがうらぎったんべぇ」
    イノシシ一族B「ああ、こいつが、あの山伏に、おいら達の、あの、
    ネグラを教えたんべ、それで、報酬に、このほら貝をもらったんだべ」
    イノシシ一族D(亀岡)「ちげえちげえ、この、ほら貝は、本当に拾ったんべ、
    山道に落ちていたんべよ!」
    イノシシ一族C「んなら、なんで、あの山伏が、ここの場所を知っていたんべ、
     確かに、あの斜面から、あの山伏は、こっちを、覗いてたんぞ!」
 ―― 洞窟の前で腕を組んで立っていたイノシシ一族の大将がゆっくり、歩いてくる。
    手下達は左右一列に並び、大将の歩く道を作る。
    イノシシ一族の大将「この惚けタロウが、ほら貝を拾って、喜んだばっかりに」
    イノシシ一族D(亀岡)「おれはなんにも、しらねえよ、ほんとだべ」
 

 その後、亀岡は洞窟の入口に吊るされる。最初は両足で逆さ吊りにされるはずであったが、右足は無理なので、左足だけ縄で縛られて逆さ吊りにされた。すると片足だけの方が残虐性が増して、良い感じになった。
 この洞窟の前で、イノシシ一族が祈りを捧げると、巨大イノシシが出てきて、亀岡が食われるシーンになる。イノシシは、リモコンが壊れ、助監督が人力で動かすことになっていた。
 しかし、そのイノシシの動きが、なかなか決まらず、亀岡は、すでに15分くらい逆さ吊りの状態にされていた。
 3分置きに助監督がやってきて、「もう少しです。すみません」と謝ってきたが、亀岡は頭に血が上り、だんだん朦朧としてきていた。
 そして、ようやく30分後、撮影が再開された。

「山伏サンダーキラー」 シーン65

 ―― 洞窟の前
    イノシシ一族の祈りの太鼓がリズムを刻み、唸り声のようなお祈りがはじまる。
    生け贄にされ、洞窟の前に逆さ吊りにされている手下D(亀岡)は
    「やめてくれ! たすけてくれ!」と 叫んでいる。逆さ吊りのロープがゆれて、
    身体がぶるんぶるん回転している。
    お祈りが最高潮に達すると巨大イノシシが洞窟から飛び出してくる。
    そして、逆さ吊りにされた、生け贄の頭にかぶりつく。


  この巨大イノシシは本来電動で動いていたものを手動で動かしていたので、操作する助監督は加減がわからず、洞窟からぎこちなく飛び出してきた巨大イノシシは、ものすごい勢いで亀岡の顔面を口の中に挟み込んだ。顔面がつぶれ、牙が頬にめり込んでくると、亀岡は悲鳴をあげた。
「はい、カーット。OK!」
 監督は「亀岡ちゃんの今の悲鳴よかったよ」と、逆さ吊りにされ、イノシシに顔面を挟まれたままの亀岡のもとにやってきた。
「ヒーッツ、ヒーッ、ちょ、助けてください!」
 OKになったのに亀岡の悲鳴はまだ続いている。
 事態に気づいた監督は「おい、早く、亀岡ちゃん、助けてやれ!」と助監督に声をかけたが、助監督はイノシシをそのままにして、すでに他の作業に移ってしまっていた。
 イノシシの口の中から解放され、逆さ吊りから降ろされた亀岡は、助監督におんぶをされて宿に戻った。
 台本や予定を変更したので、亀岡の出番はこれで全て終わりになった。制作の方も予算がないので、一日でも関係ない人間がいられるのは困るからと、亀岡はその日のうちに東京に帰ることになった。
 宿の倉庫には、店主が骨折したときに使っていた松葉杖が埃をかぶっていて、それを借りることができた。
 夕方撮影隊が戻ってくると、亀岡は皆に謝罪した。監督やスタッフ、共演者は「気にするな、気にするな」と言ってくれた。
 本当に、申しわけない気持ちで一杯になって、亀岡はスタッフの一人が運転してくれる車に乗り、山を下り、駅に向かった。
 電車に乗って東京へ向かっていると、さっきまでのしおらしい気持ちは徐々に消え失せてきて、久しぶりに東京に戻れことが嬉しくなってきた。
 そしてやってきた車内販売で缶ビールを買って、飲みはじめた。足下からは、シップのニオイが漂ってきた。
(続く)