2010.8.10更新



 なんだか、やたらよく眠った。ゆっくり目を開けると、外は少し明るくなってきていた。豪華な装飾の部屋の天井には、民族調の模様があった。一瞬亀岡は自分がどこにいるのか、わからなかった。
 昨日はプールサイドで酒を飲み、部屋に戻ってすぐに眠ってしまった。だいぶ長い間眠ったのだが、まだ寝足りない気分でもあった。
 しばらくすると部屋の電話が鳴った。ハミッドだった。
「そろそろ、砂漠に向かいますよ」
 亀岡は急いで着替え、ロビーに出た。ハミッドはロビーでミントティーを飲みながら待っていた。昨日とは違って、亀岡がやってくると、そそくさと立ち上がった。
 ロケバスのようなもので行くのだと思っていたが、そこには、古い4WDが停まっているだけだった。運転手は昨日とは違って、青い目をしたモロッコ人だった。
 小さな山を越えると、徐々に植物の緑がなくなってくる。そして、乾いた大地が広がってきた。走っている道は徐々に舗装が悪くなり、車の揺れも激しくなった。
 途中の小さな集落に出ると木造の傾いた建物の前で車が停まった。そこは売店で、水とパンと飴を買った。カサカサに乾いたパンには砂が付いていて、口の中でじゃりじゃりとした。
 景色は、全てが砂の色、黄土色になってきた。地平線の向こうに大きな石の山が見える。道はまだ舗装されているが、砂だらけである。
「最後の村です。あとは砂漠」とハミッドが言った。
 村には粗末な家が数軒立ち並び、道はアスファルトから砂へと変わっていく。メインストリートらしきところのどん詰まりまで来ると、砂地が一気に広がった。
 車の横をオフロードバイクの集団が通り過ぎ、砂漠の中に突入していった。
 撮影現場は、最後の街から少し走ったところにあった。完全に砂漠の中だった。
 そこには、即席のテントが何張も立てられ、オフロードトラックが何台もあって、照明の機材やカメラのクレーンなどが配置されている。
 砂漠の中に置いてある機材は、そこだけ発光しているような、むりやりこしらえたオアシスのような風景だった。
 亀岡はトラックの後方のコンテナに案内された。こんなところでもクーラーが効いていて、もの凄く涼しい。ここが衣装やメイク室になっているらしい。
 しかし、ここまできても自分がどのような役なのかまったくわからない。
 衣装を渡してきたのは、ホモっぽい黒人だったが、英語なのでまったく何を言っているのか理解できなかった。
 彼は、黒い布を亀岡にあて、にっこり微笑み、服を脱ぐように促した。そしてその布をすっぽり被せてきた。さらに頭にも黒い頭巾のようなものを被せた。目の部分だけが開いていた。
 助監督が、コンテナの中に亀岡を呼びに来た。
 外に出るともの凄い暑さで、向こうの方で監督がメガホンを持ってなにやらわめいている。実際にこんなに沢山の人間が必要なのかと思えるくらい、関係者が砂漠の中に溢れていた。そして向こうにラクダが一頭いた。
 あまりに暑いので、亀岡は頭巾を取って、監督のいる方まで歩いていった。監督はハミッドとなにやら話をしていた。そして亀岡がやってきたことに気がつくと、
「カメオカー!」と大きな声で叫んだ。
 亀岡が頭を下げてゆっくりお辞儀をすると、監督もそれを真似して、ぎこちないお辞儀をした。
 数カ月前に六本木のホテルで会ったときとは、まったく違う印象だった。前に会ったときよりも数倍もテンションが高く、喋っているというよりも、常にまくしたてているような勢いだった。
 ハミッドは監督から受けた説明を亀岡に伝えた。
「亀岡さんは、向こうの方で、ラクダを引いて、歩いてください」
「はい。それから?」
 ハミッドは監督に訊く。監督はなにやら答えた。
「それだけです」
 結局、台本もなにもなくて、自分がどんな役なのかもまったくわからない。しかし、そのような野暮なことを訊くのはもうやめた。亀岡は、ただ言われた通りに従った。
 亀岡は、現地人のラクダ使いと一緒に、カメラからだいぶ離れたところで待機することになった。ラクダ使いは、薄汚れた白いポンチョのようなものを着ていた。亀岡ににっこりと微笑みかけてきたその歯は真っ黒で、半分くらいしかなかった。
 砂に足を取られながら歩いていく。ラクダはもの凄く臭かった。皮膚から屁をこいているような臭さだ。
 カメラや監督のいる場所から100メートルくらい離れた場所に来ている。
 亀岡がラクダ使いから手綱を渡されるとラクダが突然暴れ出した。亀岡は引っぱられ、砂地に転んでしまいそうになった。するとラクダ使いが、木の棒で容赦なくひっぱたいた。ラクダの身体からはボスボスと木で叩かれる音が響く。
 ラクダはブルルルと口を鳴らし、唾の泡を亀岡に飛ばしてきた。その唾も、とんでもなく臭かった。
 ようやくラクダは落ち着いて、亀岡は再び、手綱を持った。
 ラクダ使いが、向こうの方のカメラに手を振りながら、走って戻っていった。
 拡声器で「スタート」の声がかかる。
 亀岡はラクダを引いて歩き始めた。
 向こうの方には、砂と空しか見えない。
 自分がいったい何をしてるのかすらわからない。
 なかなかカットの声がかからず、途中で渡された頭巾を被るのを忘れていたのに気づいた。でもここで被るわけにはいかず、誰も気づいてないかもしれないので、もうどうでもいいと思った。
 後方でラクダが、またブルブル口を鳴らし、再び唾液を飛ばしてきた。
 太陽の熱で頭がクラクラしてくる。地面の砂からの熱気で、毛穴から汗が噴き出ているのがわかる。
 このまま、どこまで歩かされるのだろうか、チラッと遠くの撮影隊の方を見ようとしたが、既に自分の後方にあった。
 もしかしたら、忘れられてしまっているのではないかという気にすらなった。
 このままラクダと歩いて、おれは、どこにいくのだろう? なんだか目が焼けてきていそうで、青い空が曇って見えた。
 そこには、自分の目の中だけでしか見えていないような、雲が浮かんでいる。
 本当の雲なのだろうか、なんなのだろうか?
 喉が、やたら乾いてくる。唇の上の汗は、乾いて、舐めると、塩の味がした。
 砂が口に入って、奥歯がジャリジャリする。
 歩みはだんだん遅くなっている。
 このまま倒れてしまいそうで、意識が遠のいてくる。
 風の音、砂の感触、照りつける太陽、すべてがバラバラになって、身体の中に入り込んでくる。
 おれは、いったいなんなのか、ラクダがブルブル鳴らす音も、遠くに聞こえてきた。
 どのくらい歩いていたのだろうか、向こうの方からエンジン音が聞こえて、ジープがやってきた。
「カーット。OK!」
 荷台に乗っていた監督が、飛び降りて亀岡を抱きしめた。
 さっぱりわけがわからないが、どうも10分以上歩いていたようである。
 ラクダ使いに手綱を渡し、亀岡はジープに乗り込んだ。その間も監督は興奮してまくしたてて、ハミッドがそれを通訳してくれる。
「亀岡さん最高、死にそうな感じで、砂漠を歩く、あの姿は、あなたしかできません。足取りが、だんだん、駄目になっていく感じとか、疲れた感じとか、本当に最高です」
「ああ、そうですか。ありがとう」
 そう言われたものの、実際に亀岡は、半分脱水症状に陥っていた。撮影現場に戻り、水を飲むと、その水が身体の中で湯になっていくようだった。
 黒い布を脱ぐとパンツの中から頭巾が出てきたが、気にせず衣装スタッフに渡した。
 控え室になっているコンテナはクーラーが効いていた。そこで待っていると、ハミッドと監督がやってきた。
 監督がなにかを喋り、ハミッドが通訳をする。
「どうも、ありがとうございました、これで撮影は終わりです。あなたと仕事ができて、本当に嬉しかったです」
「そうですか、こちらこそ、どうもありがとうございます」
 撮影はまだ続いていたが、亀岡はハミッドと運転手とホテルに戻った。
 これはいったいなんだったのだろう? 砂漠でラクダを引いただけの撮影だったが、本当に自分で良かったのだろうか? まったくもってわからない。
 まあ普通に考えてみれば、いつもの撮影の役とたいして変わらず、その場所が砂漠になったというだけだった。
 その日は昼までホテルで休み、再びハミッドと車でマラケッシュに戻ることになった。そしてマラケッシュのホテルで一泊して、電車でカサブランカに戻ってきた。
 翌日、空港に着くとストライキがあって、飛行機が4日後ということになってしまった。
 亀岡は、カサブランカで完璧に放ったらかし状態にされてしまった。
 ホテルでじっとして待ってろといわんばかりに、なんのケアもなく、ハミッドもいなくなってしまった。
 このままホテルで寝て過ごすしかないのかと、亀岡はホテルのロビーで、一人ミントティーを飲みながら、地図を眺めていると、タンジェという街が目に入った。
 タンジェは亀岡の大好きなスパイ映画「骨抜きジャック」の舞台でもある。
 
 「骨抜きジャック」は、ある男を追っている。しかし、その追っている男は実は自分だった。記憶をなくしたジャックは、自分を追ってヨーロッパを彷徨い、タンジェに行き着く。そこの安宿で悶々とした日々を過ごし、現地人の娼婦に癒され、追っていた人物が自分だとわかったとき、ジブラルタル海峡を望めるカフェで、持っていた拳銃を自分のコメカミに持っていく。画面にはその後、真っ青な空が映し出され、船の汽笛が大きく鳴り響き、雲が形を変える。ジャックは自殺をしたのか? それとも、その空を見て、死ぬのを思い留まったのか、それは、この映画の謎である。
 タンジェには、その最後のシーンのカフェも実際に残っているらしい。ラクダ引きの役を終えた亀岡は、骨抜きジャックを追って、タンジェの街を訪れてみることにした。
(続く)