2010.7.9更新



 煙の中をかきわけて奥に進んでいくと、無闇に電飾が光っているカウンターがあって、奥の壁にはビールの銘柄のネオンが光っていた。壁に取り付けてある棚にはテレビがあって、サッカー中継が流れているが、爆音で流れるアラブ音楽でその音はかき消されている。
 カウンターの中には髭の濃い痩せたモロッコ人が立っていて、亀岡を見ると顎をしゃくり上げ挨拶をしてきた。亀岡は頭を下げてお辞儀をした。
 そういえば、さっきから気になっていたが、日本人の挨拶は頭を下げるけれど、こちらの人は、逆で、顎をしゃくり上げるような挨拶をする。
 亀岡は、「ビアー、ビール、ビアー」と男に言った。彼はまったく愛想なく頷き、奥の冷蔵庫を開けにいった。
 背中に感じる視線を意識して、ゆっくり振り返ると、暗闇の中に沢山の濁った目が白く光っていた。
 真ん中のテーブル席には、大根のような太い腕を組んでいる男がいて、彼の顔は傷だらけだった。胸は空気でふくらんだように盛り上がり、目は今さっき人を殺してきたかのように危ない感じだった。
 その横には、スーツを着た禿げ頭の小さな男が、赤ら顔で座っている。隣の男に比べて愛嬌はあるが、やはり眼光が鋭かった。見るからに堅気ではない二人、小さな男がボスで、大根腕の男が用心棒のようであった。
 その奥のテーブル席では、店の中で唯一の女性が座っている。彼女は煙草をふかしながら、うつろな目で天井を眺め、唇は真っ赤な口紅が浮立つように塗られ、頬がやたらこけていた。しかし店の中にいる唯一の女性であるのに、男達は彼女の存在を無視するかのように、酒を飲んでいた。
 カウンターに置かれたのはハイネケンのビールだった。炭酸が口の中にはじける。怪しい視線に、煙と音の渦にまみれているこの状況では、ビールの味すら曖昧になってきた。
 亀岡はまだ少し緊張していた。カウンターの男がなにやら話しかけてきたが、なにを言っているのかまったくわからない。しかし、最後に「チャイナ? ジャポン?」と聞こえたので、「ジャポン」と答えた。
 カウンターに酒を取りにくる酔っ払いの男たちは、その度に亀岡に握手を求めてきた。みんな手がデカくてゴツゴツしていたが、まったく愛想がないように思えていた彼らは、気の良さそうな人達だった。
 二本目のビールを飲んでいると、大根腕の男が、片手で二本のビール瓶を指に挟んで横に立っていた。目が合うと顎をしゃくり上げてきたので、亀岡も顎をしゃくり上げた。やはり彼は、他の酔っ払い達にくらべると愛想がなく、無言で自分のいた席を指した。
 そこには禿げた男がこちらを見てニコニコしながら手招きをしていた。
 亀岡はビールを手に持ち、男と一緒にその席へ向かった。テーブル席に座ると、
「ジャパニ?」と訊いてきたので、「イエス」と答える。
 しかし、それ以上まったく会話が進まない。しばらくして禿げの男が大根腕になにやら耳打ちすると、大根腕は立ち上がり、カウンターに向かった。そして赤ワインのボトルとコップを持って戻ってきた。
 注がれたワインを飲みながら、亀岡は無言で、禿げ男と見つめ合っている。この変な空気をどう打破したらいいのかわからず、ワインを飲み続けた。その横では大根腕が表情ひとつ変えずに、傷だらけの顔でこちらを見ている。
 もしかしたら、この禿げは、ホモなのではないかと思えてきた。とにかく、とろけるような目で、ニコニコしながら、亀岡は見つめられている。
 しばらくすると店内の音楽が止んで、シンセサイザーのポコポコと安っぽいリズムマシーンの音が店に響き出した。
 客達が大きな声を出し、拍手をし始めた。店の中にある小さな舞台上では、太ったオッサンがシンセサイザーの前に座っていた。
 しばらくすると、そこに紫色のサテンの布をまとった、グラマーな女性が現れた。彫りの深いアラブ人の顔に、怪しいガラス玉のような目。くねらす腰に波打つお腹、ヘソが見え隠れしている。彼女は目をつぶり、ゆっくりマイクを握った。
 シンセサイザーのポコポコが激しくなる。
 彼女の歌声は、太く、怨念がこもっているようだった。しかし、シンセサイザーの安っぽい軽快なリズムが、その歌声の重みを軽くしていた。
 すると突然、禿げの男が亀岡の手を握ってきて、大根腕が、顎で、生演奏をしているフロアの方を指した。
 亀岡は禿げの男に連れられてフロアの真ん中に行き、手を取り合って踊ることになった。もうなにも抵抗はできなかった。踊るしかなくて、足でステップを踏みながら、男と一緒にフロアをぐるぐるまわった。他の男達がやんやと騒ぎ出し笑い声が聞こえてきた。亀岡の踊りはものすごくリズム感のない、滑稽なものだった。
 歌を唄う女と目が合うと、その大きくて黒い瞳は、すべてを飲み込んでしまいそうなくらい深淵だった。しかし、禿げの男の頭から臭うオーデコロンのにおいで、現実に戻される。
 だが、この現実が、いったい、なんだか、わからなくもなっていた。
 異国の、それもアルコールが禁止の国で、禿げたおっさんと見つめ合い、ワインを飲んで、踊っている。
 20分ほど踊り続け、ふらふらになってテーブル席に戻ると、大根腕の男が、無表情にビールを差し出してくれた。
 再び、会話のない時間が流れる。彼女の歌声が身体に響いて振動している。
 亀岡は一気にそれを飲んで、そろそろホテルに帰ろうと思った。
「バック、ホテル」と言いながら入口を指し、財布を出して払おうとすると、禿げの男が手を制して、指を自分の顔の前に持ってきて、横に振った。
 亀岡は、先ほど覚えた、ありがとうの「シュクラン」を言って、深々とお辞儀をした。禿げ男が手を差し出してきたので、握手をした。大根腕にも握手をした。亀岡がニコリと微笑みかけると男も微笑み返してくれた。顔の傷が深くえぐられて、余計に凶悪に見えたが、初めて笑顔が見れて、少し嬉しくなった。
 禿げの男はホモだったのだろうか? そういえば、奥に座っていた痩せた女性は、いつの間にか居なくなっていたが、あれは娼婦だったのか? 大根腕と禿げの男は、いったいなんの仕事をしているのか? 俺はなにをしていたのか? 
 ホテルに戻ってフロントでキーをもらうと、アルコールの臭いがしたのか、従業員には、あからさまに嫌な顔をされた。
 部屋に戻って、シャワーも浴びずにベッドに横になった。
 次の日、部屋の電話がけたたましく鳴って、目を覚ました。電話に出ると、昨日のハミッドだった。
「カメオカさーん。起きました? もう時間ですよ」
 昨日のままの格好だった亀岡はTシャツだけ着替えて、顔を洗って急いで部屋を出た。
 ハミッドはフロントでミントティーを飲んでいた。亀岡も勧められて、鉄の急須から、小さなガラスのカップに注がれたそれを飲んだ。砂糖が大量に入っていて、かき氷のシロップのように甘く、最初は驚いたが、徐々に慣れてくると、昨日のアルコールが残る胸のあたりが清々しくなってきた。
 すぐに出発だと急かされたので慌てて部屋を出てきた亀岡だったが、ハミッドはホテルの人とくっちゃべっていて、やたらに余裕である。
 15分ほどフロントでミントティーを飲んでいた二人だったが、ようやくタクシーがやってきて、カサブランカの駅まで行った。
「カメオカさん、お酒飲んだでしょ?」
「はい」
「お酒くさいですよ、ミントティー沢山、飲みましょう」
 駅に着くと、カフェに寄って、またミントティーを飲んだ。
 ミントティーを飲むには作法があるらしく、ポットを高くかかげながらグラスの中に注いだものをもう一度ポットに戻す。それを何度か繰り返してから飲む。そうすると風味が増すのだと、ハミッドが教えてくれた。
 電車に乗って、亀岡は眠った。数時間でマラケッシュに着いた。そこがすでに砂漠のようになっていると思い込んでいたが、マラケッシュは随分開けた街で予想以上に賑やかだった。駅前で待っていた四輪駆動車に乗り込んで移動をする。運転手は現地人の男で、緑色の遠い目をしていた。彼は亀岡に軽く挨拶をして、たまにハミッドと会話をするくらいで、あとはほとんど無言でハンドルを握っていた。
 目の前に大きな山脈が見えて、「あの山を越えた、向こう側に行きます」とハミッドは言った。
 マラケッシュの街を抜け、山道に入ると、徐々に道が険しくなってきた。
 亀岡は、車の揺れに任せて、また居眠りをこいた。移動中は眠るに限る。常にそう思っている。
 夕方、車はワルザザードという街に入った。あたりの雰囲気はカサブランカとはまったく違っていた。
 空気は砂っぽく、黄土色の地面に対比するように、真っ青の空が広がっている。
「あそこが、映画スタジオです」
 ハミッドが指したところには、大きなゲートがあり、真ん中にちょっと造型のおかしいツタンカーメンの像があった。
「あそこで、撮影するんですか?」
「いや、あそこじゃないです。カメオカさんは、ホテルに一泊してもらって、明日の朝に砂漠に向かいます」
「ここはまだ砂漠じゃないの?」
「はい。まだ、本当の砂漠じゃないです」
 ワルザザードのホテルは、他の出演者も泊っているらしく、四つ星の立派なホテルだったが、撮影に出かけているのか、映画関係者らしき人の姿はなく、閑散としていた。
 部屋は10人くらい泊れるほどの大きく豪華なもので、まったく落ち着かず、自分はいったいなにをしに来たのか、さらによくわからなくなっていた。
 ハミッドの泊る宿はここではないらしく、「明日の朝、また迎えに来ます」と言っていなくなってしまったので、亀岡は、また一人残されてしまった。
 ホテルは高台にあって、町の方まで降りていくにはだいぶ時間がかかりそうだったので、仕方なくホテルの中をうろついて、中庭のプールに出た。そこにはミニバーのようなものがあって、またついつい酒を飲み始めてしまった。
 しばらくすると、今回の映画の主演俳優がやってきた。彼は、金髪女性を連れて、プールサイドに座った。
 亀岡はチラチラと二人を気にしていたが、向こうがこっちのことを知っている筈もなかった。二人の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
 俺はこんなところにいていいのだろうか? 亀岡は、まったくもって場違いな気がしてきた。
 それにしても、いったい、明日の撮影は、どんな映画なのだろうか。
(続く)