2010.2.10更新



 その日、天気は曇っていた。朝から寒くて、なにやら雪でも降りそうな感じだったが、やっと休みができた亀岡は、この前撮影で行った街の、安曇の居る、あの飲み屋に行くことにした。そして昼過ぎにバイクのエンジンをかけて、走り出した。
 亀岡の乗っているバイクはKawasakiのGPZ900Rという、逆輸入車の中古を数年前に買ったもので、亀岡はバイクを運転することが好きだった。昔はバイクにテントを積んでツーリングに行っていたが、今はテントで眠るには歳をとりすぎてしまい、街の旅館やビジネスホテルに泊るようになった。
 途中、約束したオムツを履いて行かなくてはと思い、薬局に寄って大人用オムツを買ったのだが、どこで履き替えようかと迷ったあげく、適当な場所が見つからずに、後部座席に買い物袋をくくりつけたまま高速に乗った。
 バイクのスピードをあげて行くと、とんでもなく寒くなってきた。防寒ジャンパーを着ていたが、身体に当る風は骨まで冷たくして、オムツの入ったビニール袋は風にあおられて音を立てていた。
 そして、まずいことに、途中雪が降り出してきた。
 高速を降りるとさらに雪は激しくなってきた。慎重に運転しながら、撮影のときに泊った国道沿いのビジネスホテルにチェックインをした。フロントの男は亀岡の事を憶えていた。
「あれ? また撮影ですか?」
「いや今日は違うんです」
 雪で濡れた亀岡は震えながら部屋に入り、直ぐに熱いシャワーを浴びたのだが、身体が冷たくなりすぎていて、お湯が痛く感じた。
 風呂を出ると、浴衣に着替えて、廊下で缶ビールを買い、一息ついて、買い物袋の中から大人用オムツを取り出した。
 なんでこんなものを買ってきてしまったのか、しかし、あの女性宇宙飛行士のように、オムツを履いて行くと約束したのに、ここへ来るまで自分は履いて来なかったわけで、少し自責の念にもかられた。
 オムツを手に取って眺めていると、履くことがためらわれてきてしまったが、もしかしたら、その日、安曇に見せる機会があるかもしれない、そして、それはどんな状況なのか、考えてみると、興奮してきてしまい、自分を落ち着かせた。
 しかし、こんなものを現実生活で、それも女性との約束のためだけに履こうとしている自分はいったいなんなのか、ちょっとおかしいのではないかと思えてきた。
 役者の仕事であればいつでも素っ裸になってきたし、オムツを履くくらいなんてことないのだが……。ぐだぐだ考えていたが、とにかく亀岡は、浴衣を脱いで、パンツを脱いで、素っ裸になって、オムツに履き替えてみた。 
 そして、扉の脇にある鏡で自分の姿を映して見た。
 今までいろんな役をやってきたが、オムツを履く役はやったことがなかった。しかし思っていたよりも、しっくり似合っていて、色々なポーズをとってみた。
 お店が始まるまでにはまだ時間が早かったので、オムツを履いたまま部屋の浴衣を着て、ベッドに入って横になると、そのまま眠ってしまった。
 目を覚ますと8時になっていて、窓の外を見ると雪がさっきよりも激しく降っていた。
 着替えようとして浴衣を脱いだ亀岡は、オムツ姿だったのを忘れていて、一人笑ってしまった。そして、オムツの上から、ズボンを履いた。
 ホテルを出ると、雪はもう積もりはじめていた。下半身が膨らんで、歩きにくかったが、オムツを履いた股間まわりは暖かかった。
 国道を向こう側に渡るには、300メートルくらい先にある歩道橋まで行かなくてはならない。面倒なので亀岡は車がやって来ないのを見計らい、国道を走って渡ることにした。
 途中、何回か雪で滑りそうになりながら、なんとか渡り切ると、縁石につまずいて転んでしまった。そしてアスファルトに右手をついて倒れたとき、「グリッ」と鈍い音がした。
 立ち上がり、汚れて濡れているズボンや衣服を手で払おうとすると、右手首に激痛が走った。動かすと痛い。
 路地を覗くと、酒場のムロタの赤ちょうちんが見えた。
 店の中は暖房がよく効いていて、その暖かさに混じって、食べ物の匂いがした。亀岡はカウンター席に座った。
 安曇の姿はどこにも見あたらなかった。カウンターの中では、おやじが魚を焼いていて煙が立っていた。
「ビールお願いします」
「はいよ、ビールね」
 このおやじは多分、この前話をした安曇の父親らしかった。
「あと、タコと寒天をください」
「はいよ」
 店にはテレビの音が響いていた。
 ビールをコップに注ごうとしたが、瓶を持った右手首が痛くて、左手で注いだ。
 安曇はこの前も遅い時間にやってきていたので、まだ来てないのだろうか。
 亀岡は酒を飲みながらゆっくり待つことにした。ズボンの下のオムツはゴワゴワしていた。
 カウンターに置かれた料理を箸でつまんで食べようとしたが、右手首が痛くて、箸が思うように使えなかった。それで左手で箸を使ってみたが、やはり上手くいかず、指でつまんで食べることにした。
 ビールを2本飲んで、熱燗を頼んだ。黙ってテレビを眺めながら酒を飲んでいると、アルコールの酔いがまわってきて手首の痛みは和らいできているような気がした。しかしただ麻痺してきているだけなのかもしれない。それに手首はどんどん膨れてきていた。
 客はぼちぼち帰りはじめていて、この前入り口の脇に座っていた、赤い毛糸の帽子の爺さんがいるだけだった。
 カウンターの中のおやじと目があったので、亀岡は話しかけてみた。
「今日は、寒いですね」
「そうだね」
「こっちは雪降るの珍しいんですか?」
「そんなことねえよ、寒けりゃ降るよ。まあ今日は特に大降りだけどね」
 そこに扉が開いて、安曇が入って来た。
「やっと眠ってくれたよ」彼女はおやじに言った。
「もう今日はいいぞ、店」
「いいよ、明日の仕込み、少しやっちゃうから」
 亀岡は安曇を見た。
「あー!」
 彼女は突然笑顔になって、亀岡を指さした。するとおやじが、
「知り合いだったの?」
「お父さんも、この人知ってるはずだよ」
「え?」
「テレビとか映画、出てる人なんだから」
「へ? あんた俳優さんなの?」
「え? まあ、そんな感じなんですけど」
 亀岡は意表を突かれた。
 安曇は、なんで自分が俳優だということを知ってるのだろ? 確かこの前はボーリングの球を売っていると言った筈だった。
 おやじは亀岡のことをジーと見て、
「あーあー。なんか見たことある気がするよ」
「でしょ」
「あんた、あの、なんだっけ、なんとかっていう時代劇出てたでしょ、ほらなんだっけ? 花水木人情奉行所」
「ああ、はい」
「おうおう、知ってる知ってる。桜井さん、ほらほら、この人、俳優さんだって」
 すると赤い毛糸の帽子の爺さんは、
「知ってるよ。役者さんだろ、この前も一人で来てたもんな、映画の撮影近くでやってたときにさ」
 安曇はニコニコと亀岡のことを見ていた。話を聞くと、亀岡が店に来た次の日に監督達がこの店に来たらしく、彼等は、亀岡に訊いてここに来たのだと安曇に話したらしい。
「そうだ、サインだよ、サイン、サインしてくださいよ」
 おやじは、さっきまでは無愛想だったのに、亀岡が役者だとわかると、急にニコニコし、白いコピー用紙とマジックペンを渡した。
 亀岡はサインなど殆どしたことはないのだけれど、渡されてしまったものはしょうがないと、サインを書こうとすると、右手が膨れすぎていて、思うように書けなかった。
 すると安曇がその手を見て
「どうしたんですか、手すごい腫れてますけど」
「ああ、いや、あの、さっき転んじゃいまして、でも大丈夫です」
 と言ったものの、やはり右手では書けそうにもなく、
「あの、左手で書いてもいいですか?」
「ああ、なんでもいいけどさ、薬箱にシップ入っていただろ。あれ出してあげなよ」
 おやじは言った。
 亀岡は左手で、子供のいたずら書きのようなサインを書いた。 
 それを受け取ると、おやじは、
「飾っておかないといけないな」
 と言って、カウンターの棚のメニューの紙が並んでいる横に画鋲で貼り付けた。
 彼女が薬箱を持ってきてくれて、亀岡の手にシップを貼って包帯を巻いてくれた。
 しばらくすると、おやじは、赤い帽子の爺さんと「カラオケに行ってくるから」と言って店を出て行った。そして、
「もし、なんだったら、あんたも後から来いよ。役者さんなんて来たらママ喜ぶから」
「はあ、もし、行けましたら」
「駅の方にある。ケメって店だから、来るんだったら安曇にきいてよ」
「わかりました」
 そう答えたものの、亀岡は行く気はなかった。
 カウンターの中で彼女は、ひじきを煮たり漬物をつけたり、明日の仕込みをしながら亀岡と話していた。
「子供がね、風邪ひいちゃってね、なかなか眠ってくれなくて」
「そうなんですか」
 彼女には子供がいたのかと亀岡は思った。
「でも亀岡さん、なんであんな嘘ついたんですか? 次の日監督さんとか来てくれて、話してたら亀岡さんに訊いて店に来たって言うから、ああ、ボーリングの球を売っている人ですか、って言ったら、へ?って顔されちゃって。あの人俳優さんだよって、恥かいちゃいましたよ。なんでボーリングの球売り歩いてるなんて言ったの?」
「だって、恥ずかしいじゃないですか、たいして売れてるわけでもないのに、俳優ですなんて。でも、すんません、嘘ついちゃって」
「でも私、役者さんだって言われてから、ああそうだって、テレビで見たことあるって、思い出しましたよ」
「だから、ほら、その程度なんだから」
 亀岡は左手で日本酒を杯に注いだ。右手は動かさなければ痛みは和らいできていたが、飲めば飲むほど手首は腫れていくようだった。
「今日も撮影だったんですか?」
「え? 違いますよ、今日は安曇さんに会いに来たんですよ」
「またまた、調子いいんだから、役者さんは嘘つくのが仕事みたいだから」
「いや本当に、今日は仕事じゃないですから……」
 と言いつつも、どういうわけか、
「実は、撮影もあったんですけど……」と嘘をついてしまった。
「ほら、そうなんじゃないですか」
「まあ、そうなんですけど。お子さん、風邪は大丈夫ですか?」
「うん。寝てくれたから。上で眠ってる」
「ああ。お店の上に住んでるんですか?」
「そう、だから、なんかあっても大丈夫」
「安曇さんも飲みますか?」
「いや、今日は、ほら子供がいつ泣き出すかわからないから」
「何歳なんですか?」
「3歳です」
「じゃあ、もうオムツはとれた?」
「そうですね、でもおねしょはしちゃいますよ」
「そうかそうか」
 亀岡は一人納得したように頷いていたが、彼自身、オムツを履いていた。
 そして再び、手首が化け物みたいに腫れてきていた。
「亀岡さん、今日はもうお酒飲むのやめた方がいいんじゃないですか。手、それお酒良くないですよ」
 安曇は子供が心配なのだろうか、早く店を閉めたい感じでもあった。それに客はもう亀岡一人しかいなかった。亀岡は残りの酒を徳利から注いで、飲み干した。
「じゃあ、俺行きます。お会計お願いします」
 会計を済まして椅子から立ち上がると、カウンターに手が当たって手首に痛みが走った。
 安曇は店の外まで見送りにきてくれた。
「また来てくださいね。ごめんなさいね、今度はゆっくりお酒つきあいますから」
 亀岡は一人、ホテルに戻る道を歩いていた。雪は相変わらず激しく降っていた。
 明日はバイクで帰れるだろうか? 
 亀岡は寒さと飲んだアルコールで小便をしたくなった。オムツを履いているし、このまましても問題ないんだと思って、歩きながら、膀胱あたりの緊張をゆるめようか悩んでいた。
(寒天の街 完)