2010.1.8更新



 眠りから覚め、顔を上げると、カウンターの中の安曇が亀岡を覗き込んだ。
「あっ、すいません」
「いえ、よく寝てましたよ」
 店の電気は半分消えていた。亀岡は便所に行った。小便は酒臭く、放尿は長かった。ズボンのチャックを上げると、残尿が少し出てしまい、パンツを濡らした。オムツを履いてこの店にやってくると話していたのを思い出した。
 手を洗い、顔を洗い、鏡を見ると、眠たそうな目をしていた。
「じゃ、おれ、そろそろ帰ります。すいません眠っちゃって」
「いえいえ、いいんですよ」
「また、飲みに来ますから、オムツ履いて」
「本当ですか?」
「はい、履いてきます」
 安曇はカウンターの中で微笑んでいた。亀岡は、その微笑みを自分に好意がある証しだと、あえて勘違いすることにした。独り身の寂しさには、勘違いでも、潤いが必要だった。
 店を出ると、外は寒かった。空気は冷たくて、国道を渡ろうとしていると、走るトラックの風にあおられた。
 ホテルに戻ると、現場が終わった撮影隊が戻ってきているところだった。
 フロントで鍵を貰っていると、亀岡は肩を叩かれ、振り返ると監督だった。
「おつかれさまです」
 監督はまだ若いが、一ヶ月以上このホテルに滞在し撮影しているので、髭は伸び放題で、風呂も洗濯もまともにできておらず、実年齢よりもだいぶ老けて見えた。彼は、亀岡の出演している映画をほとんど見ており、亀岡のファンだった。そして今回の起用となった。
「亀岡さん飲んで来たんですか?」
「はあ、すんません」
「いや、こちらこそ少しの撮影なのに、こんな辺鄙なところまできてもらって」
「いやいや、こちらこそ」
「亀岡さん今日、良かったですよ。灰皿で殴られて倒れるとこ、目玉飛び出たみたいな顔しましたもん」
「そうですか」
「亀岡さんが、猫に取り憑かれちゃう映画ありましたよね、猫ゾンビ・パニック」
「ああ、あんなのも観てくれてたんですか」
「俺、あれ大好きなんですよ。亀岡さんが取り憑かれて、イチョウの木に登って、ギャーって叫びながら飛び降りるところ、あそこいいですよねぇ」
「ありがとうございます」
 猫ゾンビ・パニックは、猫と人間が性交して、そこから産まれた猫人間に噛みつかれると、みんな猫ゾンビになってしまい、東京が猫ゾンビだらけになって、政府がマタタビ爆弾を投下すると、猫ゾンビは東京湾に身投げしにいくといった、荒唐無稽な話で、客が全く入らず、直ぐに公開が打ち切りになってしまった。
「監督は、明日早いんですか?」
「5時です。安曇野の方に行って朝焼けの撮影です」
「安曇野?」
「知ってます?」
「名前だけ」
「あそこ平野になっていて、高台にのぼると、朝焼けが綺麗に見えるんですよ」
「そうなんですか」
「亀岡さん、どこで飲んで来たんですか?」
「駅の近くの酒場です」
「俺達、明日は夕方に撮影終わることになっているから、行ってみようかな」
「ムロタって店です。カタカナでムロタ、暖簾にもムロタってありますよ」
「ムロタですね」
 スタッフの一人が打ち合わせをしたいらしく、監督の後ろに立っていた。
「じゃあ、おつかれさまです。おやすみなさい」
 亀岡はエレベーターに乗って、部屋に戻った。ベッドの上には撮影終わりに渡された弁当が転がっていた。腹はあまり減っていなかったが、弁当を食べずに捨ててしまうのは気が引けると、ベッドにあぐらをかいて弁当を開け食べ始めた。
 
 次の日の朝、亀岡は7時に起きて、朝ご飯を食べに食堂へ行った。食堂の大きなガラス窓から見える駐車場に停めてあった撮影隊の車はもう出払っていて、ホテルに映画関係者は誰もいないようだった。
 天気は良かったので、きっといい朝焼けだっただろうと思った。
 ホテルを8時30分に出て、駅まで歩いた。荷物はボストンバッグひとつ。このボストンバッグひとつで、今までもいろんな現場に出向いていた。
 昨日の酒場があった路地を覗いてみると、人気は全くなかった。駅に着いて缶コーヒーを買い、9時の電車に乗り込んだ。電車の揺れに眠気を誘われ、気づくと新宿駅だった。
 今日は夕方から都内でドラマの撮影があった。一旦家に戻ろうかとも思ったが、面倒なので歌舞伎町にあるサウナに行った。
 亀岡は事務所に入っていて、マネージャーもいるのだが、いちいち付いてこられるのが嫌だったので、基本は一人で現場に向っていた。
 サウナに入って、風呂に浸かり、渡されたペラペラのガウンを着て、仮眠室で眠っていると、近くのデブのイビキが激しくなってきて起こされてしまい、また風呂に行ってサウナに入った。
 目の前には、肩から腕にかけて和彫りの入れ墨がある恰幅のいい男と、痩せぎすの男がサウナに入っていた。
「3本は飲んだかな、ボトル」和彫りが言った。
「そうっすね」
「で、お前、どうなんだ、あの女?」
「いやあ、ちょっと」
「なんだよ。お前、胸揉みまくってたじゃねえかよ」
「そうなんですけど、胸はいいんですけど、出っ歯なんですよね。歯があと1センチ引っ込んでたらいいんですけど」
「じゃあ、マスクさせときゃいいじゃねえか」
「マスクっすか?」
「マスクだよ」
「始終マスクっすか?」
「いいじゃねえかよ、始終花粉症ってことにしてさ」
「そんなのおれが決められないですよ」
 耳に入ってくる会話を聞きながら、亀岡は安曇のことを思い出していた。今日からしばらく仕事が詰まっていて、明後日は岡山に行って時代劇の映画の撮影がある。しかし岡山から帰ってくれば、2日間の休みになる。
 しばらくするとTシャツに短パンの若い従業員がサウナに入ってきて、あたりをぐるりと見渡し、何事もなかったように出て行った。
 和彫りの男と、もう一人の男は従業員が入ってきたときに、少し身構えたように見えた。このような人達の世界は、いざというときの警戒が必要なのだろう、ましてサウナなんて丸腰のわけだから、大変だと、亀岡は思った。
 1分くらい後に、また従業員がやってきた。今度は年配の男だった。そして和彫りの男を見ると、
「あのう、お客さん……」
「ああ、駄目なの?」
「はい」
「じゃあ、これだけ入らせてよ。そしたら店も出るから」
「はい」
「大丈夫だよ、ちゃんと出るよ。そのかわり、水風呂とシャワーも浴びさせてよ」
「はい」
 従業員は出て行った。
「なんだよお前、ここ大丈夫だって言ったじゃねえか」
「前に来たとき大丈夫だったんですけどね」
 最近のサウナは入れ墨を入れてる者に厳しくて、亀岡は、知り合いの俳優がヤクザの役で撮影が終わって、背中の絵を落とすためサウナに行ったら、追い出されたという話を聞いたことがあった。昔はもう少し緩かったように思うが、いつからこんなに厳しくなったのだろうか。
「サウナ出たら、店も出なくちゃならないけど、逆に、このまま5時間サウナ耐えててもいいってことですよね」痩せぎすが言った。
「お前殺す気かよ、ミイラになっちまうよ」
 亀岡は思わず、クスリと笑った。
「なあ、死んじゃうよな、5時間なんて」和彫りが亀岡に言った。
「はい」亀岡は言った。
「じゃあ、ミイラになる前に、出るか」と和彫りは立ち上がった。痩せぎすも一緒に立ち上がろうとすると、
「オメエは5時間入ってろ」
 和彫りが言って痩せぎすのスネを蹴った。痩せぎすはヘラヘラ笑って立ち上がり、和彫りの後に続いて、「どうもお騒がせしました」と亀岡に言って出て行った。
 サウナを出て亀岡は食堂に行き、親子丼を食べながら、スポーツ新聞を読んだ。新聞には、昨年、亀岡がタクシー運転手の役で出た映画が、新聞社の主催する映画賞にノミネートされていた。亀岡は主人公の男をタクシーに乗せて話すだけの役だったが、そんな小さな役でも、自分が出演した映画が評価されているのは嬉しかった。
 親子丼を食べ終わり、再び仮眠室に行って眠ろうか思ったが、ダラダラと居続けて、テレビを見ていた。
 サウナを出て、現場に入る前に本屋に寄った。そして昨日観たテレビのことを思い出し、スペインのガイドブックを買った。
 ガイドブックを買ったところで、いつ行けるかわからないが、ヨーロッパをオートバイで走ったら気持ちがいいだろうと思った。
 現場には夕方に入ったものの、待たされて、亀岡の撮影が始まったのは夜中の2時だった。乞食の役で、ゴミを漁っていたら、人間の腕を見つけるというシーンの撮影だった。
 待ち時間の間、ガイドブックを眺めていると、主演の女優が覗き込んできて、
「亀岡さんスペイン行くんですか?」と話かけてきた。
「いや、別に行きたいと思っているだけなんですけどね」
「私、去年、行きましたよ」
「旅行ですか?」
「撮影です」
「スペインのどこに行ったんですか?」
「バルセロナです」
「そうですか。ポルト・ド・サンって知ってます?」
「え?」
「ポルト・ド・サン、ガリシア地方ってところにあるらしいんですけど」
「ガリシア?」
「はい」
「知らないですね。私はバルセロナだけでしたから」
「そうですか」
 ガイドブックに、ポルト・ド・サンの場所は地図に載っているものの、街を紹介したページはどこにもなかった。ポルト・ド・サンについてわかったことは、「Porto do Son」という綴りと、ガリシア地方というところで、このガリシア地方には巡礼の終着地点として有名なサンティアゴ・デ・コンポステーラという大聖堂がある。
 その立派な大聖堂の写真を眺めていると、そこは自分には似付かわしくないような気がしてきて、やはり自分には、寒天が名産の、木枯しが吹くような街がお似合いなのだと思えた。
(続く)